Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

死に方もいろいろ(4)(2016/08/31) 

④  清水先生の考える死
 清水哲郎氏(もともと天文学者だったが、奥さんが甲状腺腫瘍で何度も手術を繰り返す間に緩和ケアなどへの関心を広げ、哲学的視点で医療現場への問題提起をされている。前東大教授。難病の研究班で私が部会長の時の班員の一人だった)の「高齢社会を生きる(東信堂)」も示唆的である。
 自分が衰えていくことを予想する。他人に生活の全てにわたって面倒を看てもらわなければならなくなった私を想像する・・・『そうなってまで生きたくない』と思う人は多いだろう。私は以前は確かにそう思っていたし、今でもそういう思いが心の中にないわけではない。最後は寝たきりになったりはしないでぽっくり逝きたいという願いに応えてくれるご利益があるという『ぽっくり寺』や、同じ思いを『ピンピンコロリ』と表現するごく普通の生活者の思いがある。確かに、元気で最後までいて、ぽっくり逝けたら良いだろう。だが、そうならなかったらだめなのだろうか?寝たきりで過ごすことは不幸だろうか?『そんなふうになってまで生きたくない』という私の思い、あなたの思いは、『そんなふうになっても』生きている人を切り捨てていないだろうか?」(終)
 最後の部分は、閉じこめ症候群(TLS)になった後も、ALSの延命治療を主張する根拠の一つにもなっている。
 「生き方、死に方」の問題を議論するとなると、文字通り生死に関わる究極の重たい課題であり、簡単に結論が導き出されるものではない。「死に方」に関しては、さまざまな考え方があるだろうし、一定の決まった考えはなく、人の意見に左右されたり、その時々の出来事に直面するなかで変化していくのが自然である。「無理な延命は望まず、自然死がいい」というような総論には賛成される人が多いが、一人称や二人称の身内なこととなると反対となりがちである。
 臓器移植法の制定時にも賛否両論に別れたが、尊厳死法の法制化の問題も同じで、最後まで意見の統一ができることではない。移植に賛成する人はドナーカードでその意思を示せばいいのと同じように、尊厳死を希望する人はあらかじめリビングウイルなどでその意思を示せばいいことである。そのように割り切ってはいけないことなのだろうか。
 井形先生は長年、日本尊厳死協会の理事長をされておられたが、「尊厳死は薬物を投与するなど積極的関与によって死に至らしめる安楽死と異なり、尊厳死はあくまで無理な延命処置を行わず自然死を尊重するものである。また、それは1人ひとり、本人の価値観に基づく決定として行われるべきものであるとして、法案の中でインフォームド・コンセントが重視されていることを強調されていた」。