死に方もいろいろ(5)(2016/09/01)
⑤ 早川さんの考える死
5月14日の日経「こころ」欄は早川一光さん(92歳)の「医者の闘病生活」と題したインタビュー記事である。診られる側の苦しみと老いについて、率直に語っておられる。
早川さんは1924年生まれで、48年に京都府立医科大学を卒業され、50年から京都・西陣に住民出資で開設された診療所に勤務、この診療所が発展して堀川病院となり、院長、理事長を務められた。住民主体の地域医療を提唱し、実践されてこられた医師である。
「暮らしの中に医療があるというのは、何も難しい理屈じゃない。患者さんの暮らしの習慣、食事や睡眠、家族、人間関係が病気に関係している、病気を治すのは医者じゃなく自分だと理解してもらうこと。患者さんと医療に携わる者が一緒に治していくということやな」
「・・・昔はおむつをしている人を見て、こうなりたくないと思っていた。でも、自分がトイレにいくまでに漏らしてしまうと、せなしゃない。『俺もおむつしてるで』と言い合える仲間がいればいい。老い、衰え、病を隠さんでいい。みんなおむつをしてもらって育てられた。今度はおむつをしてもらう。人の一生はおむつに始まって、おむつに終わるんやな。今、人生の終着駅に着いて、車庫に入る線路の上をゆっくり走っている。でも、僕は乗客じゃなくて、運転士。最後まで自分で運転したい。それが今の望みやな」(終)
「患者さんの暮らしの習慣、食事や睡眠、家族、人間関係が病気に関係している」という考え方は、私が学生時代に参加していた「社会医学研究会」の基本的な考え方であり、私が南九州病院で在宅医療を始めたきっかけでもあった。外来で数分間患者さんを診ただけではわからないことも、家を訪問すると一瞬にして「その人」が丸ごとわかることは何度も経験できた。経済状況のみならず、その患者さんや家族の価値観や宗教までも。
また難病医療や終末期医療の問題点の一つとして、患者さんが「おむつをすることを嫌がる」ことがあげられる。人間の尊厳を考える立場や手足のリハビリを考えると、トイレに誘導する意味はあるのだが、老老介護の現場では夜間排尿の度に起こされては介護者が参ってしまう。「人生はおむつで終わるんやな」という割り切りも人間の知恵ではないかと思う。
5月14日の日経「こころ」欄は早川一光さん(92歳)の「医者の闘病生活」と題したインタビュー記事である。診られる側の苦しみと老いについて、率直に語っておられる。
早川さんは1924年生まれで、48年に京都府立医科大学を卒業され、50年から京都・西陣に住民出資で開設された診療所に勤務、この診療所が発展して堀川病院となり、院長、理事長を務められた。住民主体の地域医療を提唱し、実践されてこられた医師である。
「暮らしの中に医療があるというのは、何も難しい理屈じゃない。患者さんの暮らしの習慣、食事や睡眠、家族、人間関係が病気に関係している、病気を治すのは医者じゃなく自分だと理解してもらうこと。患者さんと医療に携わる者が一緒に治していくということやな」
「・・・昔はおむつをしている人を見て、こうなりたくないと思っていた。でも、自分がトイレにいくまでに漏らしてしまうと、せなしゃない。『俺もおむつしてるで』と言い合える仲間がいればいい。老い、衰え、病を隠さんでいい。みんなおむつをしてもらって育てられた。今度はおむつをしてもらう。人の一生はおむつに始まって、おむつに終わるんやな。今、人生の終着駅に着いて、車庫に入る線路の上をゆっくり走っている。でも、僕は乗客じゃなくて、運転士。最後まで自分で運転したい。それが今の望みやな」(終)
「患者さんの暮らしの習慣、食事や睡眠、家族、人間関係が病気に関係している」という考え方は、私が学生時代に参加していた「社会医学研究会」の基本的な考え方であり、私が南九州病院で在宅医療を始めたきっかけでもあった。外来で数分間患者さんを診ただけではわからないことも、家を訪問すると一瞬にして「その人」が丸ごとわかることは何度も経験できた。経済状況のみならず、その患者さんや家族の価値観や宗教までも。
また難病医療や終末期医療の問題点の一つとして、患者さんが「おむつをすることを嫌がる」ことがあげられる。人間の尊厳を考える立場や手足のリハビリを考えると、トイレに誘導する意味はあるのだが、老老介護の現場では夜間排尿の度に起こされては介護者が参ってしまう。「人生はおむつで終わるんやな」という割り切りも人間の知恵ではないかと思う。
