Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

死に方もいろいろ(3)(2016/08/30) 

③  五木寛之の考える死
 五木寛之の「語りおろし全集(CD)」の「見えない風に吹かれて」の中で、次のようなくだりがある。
 ・・・私は戦後引き揚げてくる過程で多くの人びとの死というものを見聞きしたわけです。その死を見ていると、人間の死に方に立派な死とかくだらない死とか、意味のある死とか、そういうことはないんだな。死はみんな死なんだな、と思いました。人間が生きているということも、立派な生き方、くだらない生き方、無意味な生き方、そんな生き方に差別なんかあるんだろうか。人間が生きてるってことはみんな同じなんだと、考えるようになってきました。・・・
 また「人間の覚悟(新潮新書)」で、五木寛之氏は次のように記している。
 時代にも国家にも登山の時期と下山の時期があるように、一人ひとりの一生にも登るときと下るときがあります。ベッドに拘束されて失禁したままの状態を、生きていく価値があるとは思えないと人は言います。それは生産性に重きを置く社会の基準であって、げんに未開とされる社会で、老人が尊敬されて幸福そうに生きていることを見習うべきだと思います。アメリカ人は自分の主体性が失われるから、治療は嫌だと考えています。日本人は周りに迷惑をかけるから、それを避けたいと思います。周りに迷惑をかけたくないという、人を気遣う気持ちは大切ですが、これからは新しい意識を作り出す必要があるのではないでしょうか。
 お年寄りを尊敬する社会、年を重ねただけでも偉いのだと考え、やはり自分も長く生きることを考えた方がいい。ぼけて寝たきりで、そんな形でかろうじて生きている人間に生命の尊厳があるのか、という問いもあるでしょう。しかし私は「ある」と考えます。その人たちをケアすることによって、自分の生も保たれると考える。仏教では「菩薩行」といいます。(終)
 相模原市で起きた障害者施設で、19人の入所者が殺害されるという忌まわしい事件から一月が過ぎた。この事件、一人の特異な思想の持ち主の若者が狂気に走った事件だと単純に片づけられないことではないかと思う。日本社会の老人や障害者などの社会的弱者に対する偏見、他者の行動や考えに不寛容な風潮、生産することができなければ価値がないとする考え、格差社会の拡大など、未来に希望の持てなくなったいびつな負の構図が根底にあるような気がする。
 人は生まれてくる場所や境遇は選択べない。ただ死んでしまえば、格差などなく平等である。先週の日曜日、大分から来ていた同門の中里先生と昼食をとりながら、井形先生の思い出を語った。「今頃、天国で先に逝った佐野先生あたりが三顧の礼をされながら、細やか過ぎる案内で無事に三途の川を渡っている頃かもね」と話すことだった。