死に方もいろいろ(2)(2016/08/29)
② 「さねと」さんの死
こちらの方は私もよく知っている人であるが、誰からも愛され誠実な生き方を生涯貫き通された。
社会福祉法人「麦の芽福祉会」から、6月1日に亡くなられた中村真人さん(享年満83歳)の追悼誌(寄せ書き)が送られてきた。ちなみに真人さんの息子さんの隆司さんは、「麦の芽福祉会」の法人本部長で、この法人の育ての親ともいえる存在である。なりふりに構わず働き続け、鹿児島県でも有数の福祉法人に成長させた。
表紙はさねとさんが愛してやまなかった故郷甑島の里港の風景で、タイトルは「さねとさんの生き方~老いに育ち善く生き続けている 今もなお教わり続け 学び続けていること~」となっている。
さねとさんはパーキンソン病の治療を続けていたが、肺がんを合併し南九州病院で手術を受けた。ところが術後経過が思わしくなく肺炎などを併発し、5か月間の闘病生活後に亡くなられた。私との関わりは南九州病院時代に遡り、二月に一回ほど甑島から通院してもらっていた。物静かな人柄で、私とも病気のこと以外には話すことは少なかったが、あうんの間合いというか、しゃべらなくても何となく気持ちが通じ合っていることを感じられる不思議な方だった。
この追悼誌の表紙の裏には「病に生き 老いに生きることの意味って 何でしょう?」と書かれている。そして~さねとさんとのミーティングの場面から~となっており、南九州病院からパールランド病院に転院後の様子が綴られている。
この時は、意識もあいまいでほとんど意志疎通の叶わない状況だったかと察せられるが、職員の思いはよく伝わってくるのでそのまま転載する。
さねとさんは肺がんの術後とパーキンソン病から肺炎をこじらせ、もう5か月間も、さらなる病と闘いを続けています。この間、気管切開に人工呼吸器、そして胃瘻と、延命ではなくみんなで生き方を選びとって生き抜いています。しかしだんだんと意識も低空飛行になりつつあるようです。
それでも私たちは、さねとさんと世の中の出来事や、好きだったジャイアンツの試合の様子や家族や友だち、知人のこと、それこそ最後のおつとめとしていた「終までおつとめのあるホーム建設準備会」のことを語り続けています。
ですが、もちろんのことですが、語りかけても、さねとさんの声は聞こえません。私たちの耳にも何も返ってきません。でも、でも、声を出せず手足を動かすことができない分を埋め直すかのように、さねとさんは人間としての尊厳というカタチをもって、私たちの心を満たしてくれていることができているような気がするのです。それはまさに語りかけながらも逆に人間としての尊厳とは?と問いかけられて、私たちとさねとさんが合作で答えた、必死だけど自然な思いのような気がするのです。
そもそも介護とは人を介して人としての尊厳を引き出し合い、譲り合うことを介護というのだと思います。病に生き、老いに生きるということは尊厳を問いかけ、尊厳を語りかけ、尊厳を生み出すことではないかと思うのです。
さねとさんは私たちに逆に働きかけながら、やっぱりおつとめしながら、生き抜いてくれています。ですからミーティングの終わりの言葉はいつも、「今日もありがとうございました」(終)
多くの人にこれほどまでに慕われていたさねとさんは、かっては里診療所の施設長だった。その時の様子を、部下だった人たちが次のようなくだりにまとめている。
誇りⅠ:誰よりも真面目に誠実に、誰よりも優しくていねいに、行政の仕事人だったさねとさん
誇りⅡ:事務を知るだけではなく、患者の痛みを知り、老いの深さを知るさねとさん。
誇りⅢ:利用者、職員に教える施設長ではなく、利用者、職員とともに学び合う名施設長だったさねとさん。
私は南九州病院に入院されていたときには何度か見舞に伺ったが、転院してからはそのチャンスがなく逝かれたのはちょっと心残りである。
こちらの方は私もよく知っている人であるが、誰からも愛され誠実な生き方を生涯貫き通された。
社会福祉法人「麦の芽福祉会」から、6月1日に亡くなられた中村真人さん(享年満83歳)の追悼誌(寄せ書き)が送られてきた。ちなみに真人さんの息子さんの隆司さんは、「麦の芽福祉会」の法人本部長で、この法人の育ての親ともいえる存在である。なりふりに構わず働き続け、鹿児島県でも有数の福祉法人に成長させた。
表紙はさねとさんが愛してやまなかった故郷甑島の里港の風景で、タイトルは「さねとさんの生き方~老いに育ち善く生き続けている 今もなお教わり続け 学び続けていること~」となっている。
さねとさんはパーキンソン病の治療を続けていたが、肺がんを合併し南九州病院で手術を受けた。ところが術後経過が思わしくなく肺炎などを併発し、5か月間の闘病生活後に亡くなられた。私との関わりは南九州病院時代に遡り、二月に一回ほど甑島から通院してもらっていた。物静かな人柄で、私とも病気のこと以外には話すことは少なかったが、あうんの間合いというか、しゃべらなくても何となく気持ちが通じ合っていることを感じられる不思議な方だった。
この追悼誌の表紙の裏には「病に生き 老いに生きることの意味って 何でしょう?」と書かれている。そして~さねとさんとのミーティングの場面から~となっており、南九州病院からパールランド病院に転院後の様子が綴られている。
この時は、意識もあいまいでほとんど意志疎通の叶わない状況だったかと察せられるが、職員の思いはよく伝わってくるのでそのまま転載する。
さねとさんは肺がんの術後とパーキンソン病から肺炎をこじらせ、もう5か月間も、さらなる病と闘いを続けています。この間、気管切開に人工呼吸器、そして胃瘻と、延命ではなくみんなで生き方を選びとって生き抜いています。しかしだんだんと意識も低空飛行になりつつあるようです。
それでも私たちは、さねとさんと世の中の出来事や、好きだったジャイアンツの試合の様子や家族や友だち、知人のこと、それこそ最後のおつとめとしていた「終までおつとめのあるホーム建設準備会」のことを語り続けています。
ですが、もちろんのことですが、語りかけても、さねとさんの声は聞こえません。私たちの耳にも何も返ってきません。でも、でも、声を出せず手足を動かすことができない分を埋め直すかのように、さねとさんは人間としての尊厳というカタチをもって、私たちの心を満たしてくれていることができているような気がするのです。それはまさに語りかけながらも逆に人間としての尊厳とは?と問いかけられて、私たちとさねとさんが合作で答えた、必死だけど自然な思いのような気がするのです。
そもそも介護とは人を介して人としての尊厳を引き出し合い、譲り合うことを介護というのだと思います。病に生き、老いに生きるということは尊厳を問いかけ、尊厳を語りかけ、尊厳を生み出すことではないかと思うのです。
さねとさんは私たちに逆に働きかけながら、やっぱりおつとめしながら、生き抜いてくれています。ですからミーティングの終わりの言葉はいつも、「今日もありがとうございました」(終)
多くの人にこれほどまでに慕われていたさねとさんは、かっては里診療所の施設長だった。その時の様子を、部下だった人たちが次のようなくだりにまとめている。
誇りⅠ:誰よりも真面目に誠実に、誰よりも優しくていねいに、行政の仕事人だったさねとさん
誇りⅡ:事務を知るだけではなく、患者の痛みを知り、老いの深さを知るさねとさん。
誇りⅢ:利用者、職員に教える施設長ではなく、利用者、職員とともに学び合う名施設長だったさねとさん。
私は南九州病院に入院されていたときには何度か見舞に伺ったが、転院してからはそのチャンスがなく逝かれたのはちょっと心残りである。
