Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

井形昭弘先生を悼む(南日本新聞8月17日文化面)(2016/08/18) 

14日の午後、母の「偲ぶ会」を終えて病院に向かっていたとき、南日本新聞社のデスクから電話を頂いた。「井形先生の思い出など書いて欲しい」という依頼であった。光栄に感じたが果たして私でいいのか、その責任の重さを考えると戸惑った。ちょっと酔っていたが早い方がいいだろうとその日に書き上げて15日に送った。多くの弟子の気持ちを代弁できたのか不安になるが、私の気持ちを素直に書いたものである。
 後進の「生き方モデル」だった
 20年近く前のこと、スモン病で30年ほど闘病されていた霧島市の女性の自宅に、井形先生をお連れしたことがあった。「先生は私にとっての現人神でした」と手を合わせて感謝の気持ちを示されたが、私のみならず多くの人がそのような思いを抱いていたのではないだろうか。
 先生は接する人に分け隔てなく慈しみの心を注がれ、また物事の解決に絶妙なバランス感覚を発揮された。ともすれば火中のクリを拾うような難しい課題でもあった水俣病の抜本的な解決、臓器移植の是非、介護保険制度の創設などの社会的問題にも臆することなく真正面から取り組まれた。「頼まれたことは断らない」を自らも実践されたわけだが、そこには戦中派としての矜持と使命感、社会的弱者へのいたわりの心が根底にあったような気がする。
 私が2013年に南九州病院を退官時に刊行した「難病医療とのながい道」への寄稿のなかで、その冒頭に「私は1971年、鹿児島大学に新設された第三内科教授選に応募し、勇躍鹿児島に赴任した。未知の地への単身での乗り込みであり、一抹の不安もあったが武者震いのような興奮を覚えていた」と書かれている。当時42歳、その後の40数年にわたる不世出の足跡を辿ると、21年間にわたり屋久島環境文化財団理事長を務められるなど医療のみならず、教育、文化面でも鹿児島県に何と多くの豊穣の恵みをもたらしたことだろう。
 地方創生の先駆けともいえる「限りなくローカルなものを、限りなくインターナショナルへ」という斬新な発想のもと、HAM(成人性T細胞白血病ウイルス性脊髄疾患)など神経難病の解明にも努力された。また鹿児島大学学長退官後に国立長寿医療研究センター長に任ぜられた後は、健康長寿の問題を学際的に取り組まれた。
 冗談で「ピンピンコロリが目標」と話されていたが、名古屋学芸大学の現役の学長として一日も伏せることなく旅立たれたことはまさにあっぱれな男子の本懐といえる。お子様方も立派な家庭を築かれており、唯一の心残りがあるとすれば今年の9月3日に鹿児島市で企画していた同門会による「米寿の祝い」に出席が叶わなかったことぐらいだろう。
 先生は私たち後進にとってはその生き方のモデルであり、困ったときの精神的支柱でもあっただけに虚脱感は大きい。私は先生との出会いにより人生を変えてもらった一人であったが、なぜか「先生と一緒に飛行機に乗っているときには絶対に落ちない」という不思議な確信を持つことができた。
 良寛の辞世の句に、「散る桜 残る桜も 散る桜」というものがある。ご冥福を心よりお祈りしたい。

南日本新聞8月17日文化面