佐久総合病院(2016/08/03)
7月28日の朝、佐久総合病院からS先生が当院の見学に来られた。研修医から7年間も同じ病院で働かれており、また一時間ほど話してみたが真面目そうな好青年とお見受けした。
先生は鹿児島大学の出身(高校は私の後輩)で、卒業後長野県の佐久市にあるこの病院で、前期・後期研修医の課程を修めて後、現在は総合内科で働いておられる。大学5年の時に南九州病院に来られて、私と話したこともあったそうだが失念している。
ところで佐久総合病院は現在では急性期医療に特化した佐久医療センターと慢性疾患の診療、在宅医療、健康づくりなどを担う佐久総合病院(本院)の1000床を超す病院群に発展している。
この佐久(総合)病院、私にとってもあの有名な「若月俊一」という名前と共に懐かしい響きの病院である。学生時代の6年間、私が社会医学研究会で活動したことは何度も書いてきた。その活動そのものが、若月が佐久病院や八千穂村で実践していた保健医療活動の鹿児島ミニチュア版を目指していたのである。当時私は、社会医学研究会では農夫症班というグループに属していたが(他に、農薬班、社会保障班などがあった)、毎年夏になると志布志町の当時、無医地区だった四浦・田の浦地区の民家や公民館で、農民体操の普及や予防医学の真似事などをやっていた。
そして医学部2年の時だったかと思うが、一人で佐久病院を訪ねたこともある。佐久病院は浅間山や八ヶ岳連峰が眺められる千曲川のほとりにあった。現在では大病院に発展し、日本の病院の中でも研修医希望の最も多い病院の一つになっているが、当時はまだそれほど有名ではなかった。この時は1週間ほど滞在したが、若月に会う機会はなく、隣接の農村医学研修センターで研修を受けたり、名古屋大学出身の若い外科医の後ろをついて回ったりした。
「農民と共に」を合言葉に、戦後60年近く、地域医療や農村医療に尽力された若月俊一は2006年8月に96歳で亡くなられている。「若月俊一」という、この言葉は医学部の学生時代、私にとっては仰ぎ見る理想の偶像であり、盲目的なカリスマ的存在だった。
若月についてはいろいろな本を読んだり、人づてに話を聞くと、一口には表現し難い大きな「怪物」と思えてくる。若い頃はマルクス青年、文学少年で、戦前から戦中にかけて二回ほど治安維持法違反などで検挙され拘留されている。ドクターズマガジン(No10、2000年)の取材では、「狡い(ずるい)んですね、私は。最初の転向は、死にたくないための偽装でした」と、「狡い」という言葉を何度も使っている。
1944年に釈放され、東大外科の大槻教授のもとに挨拶に行くと、「意外にも先生は怒りませんでした。『君のような新しい考えの若者には生き残って、これからの日本のために働いてもらいたい。ちょうど信州の佐久病院に勤め口があるからそこで働いてみないか』とおっしゃって下さった。私は感激して『お言葉に従います』と申し上げるだけで精一杯でした。そして、どんなことがあっても佐久で自分の理想とする医療を実現しようと心に誓ったのです」と述べている。
佐久に赴任した若月は、昼夜を問わずひたすら働き、理想の地域医療(農村医学)の実現を目指していく。勿論、物事が全て順風満帆に進んでいくわけではなく、「左や右」の勢力からの批判も受ける。若月が凄いと思うのは、センチメンタルなヒューマニストとしての一面と、クールな経営者としての部分を見事に、外にも内にもバランスをとりながらタフに乗り越えてきたところである。インタビューの中で「必要があれば行政とも手を握りましたよ。細事は抜きにしてね、問題は世の中をよくすることですから。私は何かことにぶつかるたびに、相手に合わせて戦略と戦術を柔軟に分けて使いました。そういうところが、私の狡さなんでしょう。しかし理屈ばかり言って、問題に立ち向かわずに逃げてしまうのは、もっと狡いのではないかと思います」。
現在の自分の立場を思うとき、身につまされる言葉である。
先生は鹿児島大学の出身(高校は私の後輩)で、卒業後長野県の佐久市にあるこの病院で、前期・後期研修医の課程を修めて後、現在は総合内科で働いておられる。大学5年の時に南九州病院に来られて、私と話したこともあったそうだが失念している。
ところで佐久総合病院は現在では急性期医療に特化した佐久医療センターと慢性疾患の診療、在宅医療、健康づくりなどを担う佐久総合病院(本院)の1000床を超す病院群に発展している。
この佐久(総合)病院、私にとってもあの有名な「若月俊一」という名前と共に懐かしい響きの病院である。学生時代の6年間、私が社会医学研究会で活動したことは何度も書いてきた。その活動そのものが、若月が佐久病院や八千穂村で実践していた保健医療活動の鹿児島ミニチュア版を目指していたのである。当時私は、社会医学研究会では農夫症班というグループに属していたが(他に、農薬班、社会保障班などがあった)、毎年夏になると志布志町の当時、無医地区だった四浦・田の浦地区の民家や公民館で、農民体操の普及や予防医学の真似事などをやっていた。
そして医学部2年の時だったかと思うが、一人で佐久病院を訪ねたこともある。佐久病院は浅間山や八ヶ岳連峰が眺められる千曲川のほとりにあった。現在では大病院に発展し、日本の病院の中でも研修医希望の最も多い病院の一つになっているが、当時はまだそれほど有名ではなかった。この時は1週間ほど滞在したが、若月に会う機会はなく、隣接の農村医学研修センターで研修を受けたり、名古屋大学出身の若い外科医の後ろをついて回ったりした。
「農民と共に」を合言葉に、戦後60年近く、地域医療や農村医療に尽力された若月俊一は2006年8月に96歳で亡くなられている。「若月俊一」という、この言葉は医学部の学生時代、私にとっては仰ぎ見る理想の偶像であり、盲目的なカリスマ的存在だった。
若月についてはいろいろな本を読んだり、人づてに話を聞くと、一口には表現し難い大きな「怪物」と思えてくる。若い頃はマルクス青年、文学少年で、戦前から戦中にかけて二回ほど治安維持法違反などで検挙され拘留されている。ドクターズマガジン(No10、2000年)の取材では、「狡い(ずるい)んですね、私は。最初の転向は、死にたくないための偽装でした」と、「狡い」という言葉を何度も使っている。
1944年に釈放され、東大外科の大槻教授のもとに挨拶に行くと、「意外にも先生は怒りませんでした。『君のような新しい考えの若者には生き残って、これからの日本のために働いてもらいたい。ちょうど信州の佐久病院に勤め口があるからそこで働いてみないか』とおっしゃって下さった。私は感激して『お言葉に従います』と申し上げるだけで精一杯でした。そして、どんなことがあっても佐久で自分の理想とする医療を実現しようと心に誓ったのです」と述べている。
佐久に赴任した若月は、昼夜を問わずひたすら働き、理想の地域医療(農村医学)の実現を目指していく。勿論、物事が全て順風満帆に進んでいくわけではなく、「左や右」の勢力からの批判も受ける。若月が凄いと思うのは、センチメンタルなヒューマニストとしての一面と、クールな経営者としての部分を見事に、外にも内にもバランスをとりながらタフに乗り越えてきたところである。インタビューの中で「必要があれば行政とも手を握りましたよ。細事は抜きにしてね、問題は世の中をよくすることですから。私は何かことにぶつかるたびに、相手に合わせて戦略と戦術を柔軟に分けて使いました。そういうところが、私の狡さなんでしょう。しかし理屈ばかり言って、問題に立ち向かわずに逃げてしまうのは、もっと狡いのではないかと思います」。
現在の自分の立場を思うとき、身につまされる言葉である。
