「羽島」つながり(後)(2016/09/21)
ところでヒロシは羽島の出身で、筋ジストロフィー(病型は未確定)のために小学校の頃に入院した。その後二十数年間筋ジス病棟に入院し、その大半は私が主治医であったが、数年前に在宅療養となっている。
ヒロシは昭和40年2月の生まれで、大火の時の写真は1歳半前後ということになる。まだ歩ける頃の写真である。一面の焼け野原の中に、黒っぽい服を着た小さな子供の写真は私にも強烈で、記憶にまだ生々しく残っている。インターネットで調べると、この大火は昭和41年6月で、121戸が消失したという。
もう一つ、ヒロシと話をするときによく話題に上ったのが、「先生は羽島のことを田舎だとバカにしますが、江戸時代に薩摩の留学生が出航した港だということを知っていますか」と言われたことがあった。
薩摩の留学生と聞いてまず「つながる」のは、鹿児島中央駅の正面にある「若き薩摩の群像」(中村晋也氏制作)である。これは1863年に薩英戦争で西洋文明の偉大さを痛感した薩摩藩が、幕府の鎖国令を破って藩として密航させた15名の留学生と4名の使節団を派遣した快挙を記念して、今の鹿児島の若者にも先人を見習って欲しいとの思いで建てられたと聞いている。あの五代友厚は藩に対して英国留学生派遣事業を上申し、渡航にあたっては引率したリーダーの1人である。
この時代、禁令を破るという行為なので、全員変名を使い、甑島への出張という名目で、1865年、羽島港から英国貿易商グラバーの用意した蒸気船で英国に旅立った。この間、船が遅れたこともあって、2カ月間、この羽島に逗留したという。宿泊先になった藤崎家と川口家には以前、留学生の切った髷や刀など留学生ゆかりの品が多数残されていたが、昭和41年のこの大火でそのほとんどが焼失した。
留学生は約2ヵ月後にロンドンに到着し、ロンドン大学で学んだ。その後、アメリカやフランスにわたって留学生活を続けるものも多かった。たとえば13歳という最少年の長沢鼎(かなえ)は生涯をアメリカでおくり、広大なぶどう園の経営とぶどう酒製造に秀でてカリフォルニアのワイン王と呼ばれた。1983年に時の大統領レーガン氏が日本の国会で演説した時に、長澤の功績を称えてから日本でもよく知られるようになった。
初代文部大臣の森有礼やサッポロビールを設立した村松久成などもいる。村松は開拓使を辞して雲水となり、行方知れずになり神戸の路傍で行き倒れて死去したという。その他にも多くの若者は帰国後、外交、文教、産業等の分野で活躍し、日本の歴史を大きく転換させ、新生日本を建設する原動力となったのである。
2014年7月、いちき串木野市では薩摩藩英国留学生の留学の旅と帰国後の人生について紹介し、彼らの功績を後世に伝えるために「薩摩藩英国留学生記念館」を開館した。私はまだ訪ねたことはないが、そのうちに行こうと思っている。
薩摩の先人は勇敢で進取の気性があり、鎖国の時代に青海原の向こうに大きな夢を求めて旅立ったのである。
ヒロシは昭和40年2月の生まれで、大火の時の写真は1歳半前後ということになる。まだ歩ける頃の写真である。一面の焼け野原の中に、黒っぽい服を着た小さな子供の写真は私にも強烈で、記憶にまだ生々しく残っている。インターネットで調べると、この大火は昭和41年6月で、121戸が消失したという。
もう一つ、ヒロシと話をするときによく話題に上ったのが、「先生は羽島のことを田舎だとバカにしますが、江戸時代に薩摩の留学生が出航した港だということを知っていますか」と言われたことがあった。
薩摩の留学生と聞いてまず「つながる」のは、鹿児島中央駅の正面にある「若き薩摩の群像」(中村晋也氏制作)である。これは1863年に薩英戦争で西洋文明の偉大さを痛感した薩摩藩が、幕府の鎖国令を破って藩として密航させた15名の留学生と4名の使節団を派遣した快挙を記念して、今の鹿児島の若者にも先人を見習って欲しいとの思いで建てられたと聞いている。あの五代友厚は藩に対して英国留学生派遣事業を上申し、渡航にあたっては引率したリーダーの1人である。
この時代、禁令を破るという行為なので、全員変名を使い、甑島への出張という名目で、1865年、羽島港から英国貿易商グラバーの用意した蒸気船で英国に旅立った。この間、船が遅れたこともあって、2カ月間、この羽島に逗留したという。宿泊先になった藤崎家と川口家には以前、留学生の切った髷や刀など留学生ゆかりの品が多数残されていたが、昭和41年のこの大火でそのほとんどが焼失した。
留学生は約2ヵ月後にロンドンに到着し、ロンドン大学で学んだ。その後、アメリカやフランスにわたって留学生活を続けるものも多かった。たとえば13歳という最少年の長沢鼎(かなえ)は生涯をアメリカでおくり、広大なぶどう園の経営とぶどう酒製造に秀でてカリフォルニアのワイン王と呼ばれた。1983年に時の大統領レーガン氏が日本の国会で演説した時に、長澤の功績を称えてから日本でもよく知られるようになった。
初代文部大臣の森有礼やサッポロビールを設立した村松久成などもいる。村松は開拓使を辞して雲水となり、行方知れずになり神戸の路傍で行き倒れて死去したという。その他にも多くの若者は帰国後、外交、文教、産業等の分野で活躍し、日本の歴史を大きく転換させ、新生日本を建設する原動力となったのである。
2014年7月、いちき串木野市では薩摩藩英国留学生の留学の旅と帰国後の人生について紹介し、彼らの功績を後世に伝えるために「薩摩藩英国留学生記念館」を開館した。私はまだ訪ねたことはないが、そのうちに行こうと思っている。
薩摩の先人は勇敢で進取の気性があり、鎖国の時代に青海原の向こうに大きな夢を求めて旅立ったのである。
