鈍感力(2016/10/11)
亡くなってから久しくなるが、渡辺淳一の書いた「鈍感力」という新書(2010年)が話題になったことがあった。渡辺は自身のブログの中で、「鈍感なのは生きていくうえで強い力になる」とし、「たとえば会社で上司から叱られたり、何かいやなことがあってもすぐ忘れて前向きに進んでいける人。肉体的にもよく眠れて、目覚めもよく何でも好き嫌いなく食べて消化できる。こういう力こそ、本来の才能を育み、大きく花咲かせる原動力になる」というのである。私自身もいつもこの「鈍感力」を身につけたいと思うのだが、これがなかなか難しい。つまらないことを気にして、心がすぐ萎えてしまいそうになる。
鈍感の反対語は「敏感」になるのだろうが、歴史を振り返るとき、特に明治維新に係わった人物で、時代にあまりにも早く反応しすぎたために若い命を散らせた志士が多い。その代表的な人物が「久坂玄瑞」と考えていたら、私以外にもこの人物に「虜」になっている人も多いらしく、インターネットで検索すると素晴らしい「久坂玄瑞ファイル」を制作している人もいる(志耀館)。
玄瑞は1840年に生まれて、1864年に弱冠25歳で没している。明治維新が1868年であることを考えると、維新までわずか4年、「時代に余りにも敏感」であったがために、近代の夜明けをみることなく、「早く来すぎた志士」の一人だったということになる。この年、池田屋事件で多くの志士を失った長州藩は、翌月挙兵して京都御所に進軍したが、幕府軍との死闘の末に敗れて玄瑞は自刃しているのである。
玄瑞は名前からもわかるように、長州藩の藩医の三男として生まれた。この辺りのことは大河ドラマ、「花燃ゆ」で東出昌大が演じていた。父母や兄弟は相次いで死去し、15歳で天涯孤独の身となっている。その士気や才覚はずば抜けており、吉田松陰の妹と結婚、松蔭が刑死した後は門下生のリーダー的存在となり、長州と江戸、京都で尊王攘夷運動に身を投じた。
明治の世に、西郷隆盛は「藤田東湖先生や久坂玄瑞先生なぞが天下を論ずる席上では自分などは一口も開かれたものではない」と言ったという。ちなみに西郷は1828年生まれだから、久坂より12年も年長であるわけで、いかにその才覚が優れていたかがよくわかる。
後年、明治の元勲となった人の多くは、ある意味では時代にさほど敏感でなかったがために生き延びれたわけで、世の中のこと、確かにほどほどに「鈍感」であることが、長い眼で考えるといい処世術なのかもしれない。
鈍感の反対語は「敏感」になるのだろうが、歴史を振り返るとき、特に明治維新に係わった人物で、時代にあまりにも早く反応しすぎたために若い命を散らせた志士が多い。その代表的な人物が「久坂玄瑞」と考えていたら、私以外にもこの人物に「虜」になっている人も多いらしく、インターネットで検索すると素晴らしい「久坂玄瑞ファイル」を制作している人もいる(志耀館)。
玄瑞は1840年に生まれて、1864年に弱冠25歳で没している。明治維新が1868年であることを考えると、維新までわずか4年、「時代に余りにも敏感」であったがために、近代の夜明けをみることなく、「早く来すぎた志士」の一人だったということになる。この年、池田屋事件で多くの志士を失った長州藩は、翌月挙兵して京都御所に進軍したが、幕府軍との死闘の末に敗れて玄瑞は自刃しているのである。
玄瑞は名前からもわかるように、長州藩の藩医の三男として生まれた。この辺りのことは大河ドラマ、「花燃ゆ」で東出昌大が演じていた。父母や兄弟は相次いで死去し、15歳で天涯孤独の身となっている。その士気や才覚はずば抜けており、吉田松陰の妹と結婚、松蔭が刑死した後は門下生のリーダー的存在となり、長州と江戸、京都で尊王攘夷運動に身を投じた。
明治の世に、西郷隆盛は「藤田東湖先生や久坂玄瑞先生なぞが天下を論ずる席上では自分などは一口も開かれたものではない」と言ったという。ちなみに西郷は1828年生まれだから、久坂より12年も年長であるわけで、いかにその才覚が優れていたかがよくわかる。
後年、明治の元勲となった人の多くは、ある意味では時代にさほど敏感でなかったがために生き延びれたわけで、世の中のこと、確かにほどほどに「鈍感」であることが、長い眼で考えるといい処世術なのかもしれない。
