Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

臥薪嘗胆&坦雪埋井(2016/10/07) 

日本では、4字熟語というものがよく引用されることが多い。その中から「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」と「坦雪埋井(たんせつまいせい)」について紹介したい。
 「臥薪嘗胆」は世間でもよく使われた言葉で、「 将来の成功を期して苦労に耐えること。薪の上に寝て苦い肝をなめる」となっている。長い人生、個人も組織も順風満帆の時ばかりではない。苦難に陥ったときにこの言葉は大きな支えになる。数年前に、病院の運営面で大きな問題が生じた時にもよくこのランでも使わせてもらった言葉である。歴史は繰り返すものかもしれない。
 一方「坦雪埋井」は馴染みのない言葉で、「井戸の中に雪を入れても溶けてしまうので埋まることがない」という意味である。
 日本経営の議長をされていた菱村和彦さんから、「坦雪埋井こそが人材育成の王道」というタイトルの小冊子が送られてきたことがあった。毎年4月の入社式で、新人社員とその両親にも読んでいただけるようにと編集されたものである。
 菱村さんはこの会社の創業者であるが、小さな税理士事務所から出発して、その情熱と才覚で日本経営グループを大きな企業グループに育て上げた。私はずいぶん前に、鹿児島大学医療情報部主催のシンポジウムにシンポジストとして参加したことが縁で(菱村さんも医療経営について話された)、菱村さんから大阪市で講演を依頼され、その夜一緒に食事をしたことがあった。
 ところで、漢字は象形文字に代表されるように何となく意味が分かるものだが、坦雪埋井の意味を知っている人は少ないようで、かくいう私も知らなかった。知人に「坦雪埋井という言葉を知っている?」と聞いたら、「胆石埋没ですか」と聞き返された。この人、最近腹痛があり、その原因が胆石ではないかと心配していたので、ついこのような勝手な解釈に辿りついたものと思われる。
 江戸時代に臨済宗天龍寺派に徳雲和尚という高僧がいた。かねて「閑古錐(かんこすい)」と皆から称賛されていたが、その人がただひたすら雪を担いで井戸を埋めておられた。「閑古錐」とは使い尽くして先が丸くなってしまった錐で、今はもう役に立たないが素晴らしい輝きは保っているという意味である。いくら雪で井戸を埋めても、井戸は決して埋まらないことを知っているはずなのに、それでもただただ井戸を雪で埋めていた。成果を期待することのない、目的のない実践とも受け取れる。
 菱村さんから贈られた小冊子の最初のページには、臨済宗中興の祖と呼ばれる高僧、白隠禅師の言葉が掲げられている。
 「雪をつかんで井戸を埋める。瞬時に雪は解けてしまい、決して井戸は埋まらない。全く無駄なことなんだが、やらないわけにはいかない。なぜか、それは己の本具する誓願だから。己の生き甲斐であり、それが己の在るべき生活なのだから」。
 いろいろな解釈が出来るそうだが、白隠禅師のいうところの「己の本具とする誓願」というのがこの言葉の本質を突いているように思われる。「我」の産物である一切の目的をうち捨てて、ただひたすら「いま」すべきことをしなさい。たとえその行為が無駄なものと思えるものでも、無目的の実践の必要なときもあるという戒めである。