Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

人間万事塞翁が馬(後)(2016/10/06) 

丁度10年近く前の2008年に南日本新聞の客員論説委員の委嘱を受け、一年間毎月一回「論点」を担当した。最後の12月が「禍福は糾える縄の如し」というタイトルで、個人的にはもっとも気に入っているものである。
 禍福は糾える縄の如し
 学会出張で、仙台駅近くのホテルに着いたときには夜8時を過ぎていた。とりあえず遅い夕飯を、と立ち寄った「次郎長」の暖簾(のれん)をくぐると、客は誰もいない。一瞬「選択を誤ったな」と思ったら、こちらの気持ちを見透かすように女将(おかみ)が出てきて、「今夜は9時までですよ」とややぶっきら棒に突き放す。今更場所を変えるのも億劫だし、「晩酌セット2千円」を注文する。しばらくしてこの女将は、私から3つほど離れたカウンターに腰掛けて、「お客さん、どこからですか」と話しかけてきた。「鹿児島」と答えると名産品の話題になり西郷隆盛ならよく知っていると、ここでは西郷も名産品の一つになっていた。
 人の縁というものは、不思議なものである。私は日頃、一見(いちげん)さんとして入った店で女将や客と親しくなるようなことは滅多にない。この夜はたまたま私一人だったことと、この女将の接し方や人生からにじみ出てくる熟成された人となりに琴線に触れたのかも知れない。三陸海岸で採れる「ほやの刺身」は、海のパイナップルと呼ばれているだけあって珍味だった。
 鹿児島に帰ってしばらくして無礼を詫びる手紙を頂いた。筆力も文章の構成力も77歳には思えない気力のみなぎった手紙で、まさに青春時代を戦争の真っ只中で彷徨し、物不足の戦後をたくましく生き抜いてこられた「女一代記」を読む思いにかられた。
 苦難は30歳の時に子ども二人を連れて離婚したことに始まる。店名の次郎長は別れた亭主の故郷にちなむものだった。離婚後、女中奉公などしながら自立を目指し、たい焼きと焼きそばの4つの店で寝る暇も惜しんで働いた。ところが娘が大学受験の時に発病してしまう。自分が忙しさにかまけて、面倒をみてやれなかったことが病気の引き金になったのではないかと気に病んだ。娘は20年ほど病院に入院していたという。ここ10年余りは自分で引き取り二人で暮らしている。「元気な間は、私が看ようと決心した。毎日、マンションの一階にある次郎長と、5階の自宅との間の行き帰りで一日が終わってしまう」。
 私の書いた「早起き院長のてげてげ通信」も読んでくれたようで、「てげてげ、これがないと人間はパンクしてしまいます。娘と共に暮らしてみてつくづく感じます。当初はこんな子とどうしても一緒には暮らせまいと思いましたが、お互いに何となく歩み寄ったのでしょうか、うまくもいきませんが、それなりの親子のリズムで暮らしています」と結ばれていた。
 この親子の関係を読みながら、数年前に61歳で亡くなられた患者のことを思い出した。この患者も幼少時に熱病がもとで精神遅滞となった。さまざまな施設を転々としていたが、母親が寝たきりのご主人を13年間看た後に自宅に引き取った。50歳を過ぎてから手が震えるということで、私との関係ができた。「今までうちの子をこんなに親切に診てくれたのは初めて。よく厄介払いのようにされてきました」と話された。
 在宅医療を始めたが、その時に母親は84歳、そして亡くなるまでの約10年余りをほとんど一人で看病した。「できることなら福祉のお世話にはなりたくない。自分の子どもだから、生きている間は自分で看たい」。その願いが通じたのか結果的には娘さんを見送り、96歳の今はもう一人の娘夫婦のもとで元気に静かな余生をおくっている。
 この二人の女性とも、「自分の子どもだから、自分で看よう」との強い思いで、病気の娘と一緒に暮らしながら生活されてきた。ともすれば、自分の責任(だけではないけれど)を放棄してすぐ福祉の世話にと考える風潮が強くなるなかで、現実にはなかなかできないないことである。
 もちろん状況によっては願っても叶わないことも多いわけで、このようなやり方が最善であるといっている訳ではない。ただ結果的には、この二人とも娘と一緒に生活できたことで気力も充実され、健やかな老後を過ごすことができた。「禍福は糾(あざな)える縄の如し」という諺があるが、「人生は終わってみれば、いいことも悪いことも半分半分」という言葉を、一年間お付き合いいただいた「論点」の最後としたい。(終)
 この後も次郎長の女将さんとの交流は続き、国立病院学会が仙台市で開催された時には、南九州病院一同様で大宴会を次郎長で開いた。その後、年齢のこともあり次郎長は閉店となったが、311の後にはお見舞いに行ったこともあった。ただここ数年、音信は途絶えてしまっており、お元気にされているだろうかと、ちょっと気になっているのだが・・・・。ことにしている。