故郷のために(後)(2016/11/25)
このメールを読みながら、私は個人的なことになるのだが、二つの部分で興味をもった。
一つは「先生が招待されたけど行けなかったというのはこれだったのかな」という部分である。
実は松原小学校の東校長先生から、相撲大会とちゃんこ鍋に声を掛けられていた。昨年9月、私が4年生まで在籍した松原小学校を訪問して子どもたちに20分ほど話をして、その後、子どもたちから寄せ書きをもらったことは、この前院長雑感でも書いたことがある。
私もテレビは録画でみたが、みずえさんの古里への思いのよく感じられる番組になっていた。私の姉から聞いたところでは、みずえさんの実のお母さんが、このイベントの数日前に亡くなっていた(一人暮らしだった)そうだが、番組ではこのことは伏せていた。最後の方でサプライズとして花火も打ち上げられたが、「花火を見ながらの(みずえさんの)涙は催しの充実感だけではなかったんですね」だと推察できる。
もう一つは、やはり山田君と私の父は重なっていたという事実である。彼は1962年に生まれて、整肢園に入園したのが1968年だったということは、私の父が整肢園を退職したのは1972年だったのではないだろうか(1974年に、くも膜下出血で急逝している)。
その当時のことを彼は次のように振り返っている。
肢体不自由児の施設で、障害者とはいえ筋ジスと比べると皆はるかに元気な子ばかり。元気というより暴れん坊が多く、番長的な子は竹の棒を持って歩いていました。厳しい規律でないと園の大所帯はまとまっていかなかったのでしょうね。あの子供たちのスピードに付いて遊べていれば園の生活にも順応できていたのでしょうが、脊髄性筋萎縮症の場合、動揺性歩行でヨチヨチ歩いていては輪の中には入れませんでした(もっと重度の病状の重心の子たちもいましたが、病棟を別にして対応していました)。
その後は学校には通わずに家でずっとすごしました。我が子を不憫に思い両親は連れて帰ってくれましたが、日々育てながら私の先行きが見えないことは不安だったことでしょう。その頃の親たちは今の自分よりはるかに年下ですから、よく頑張れたものだと思います。父が輝北に赴任している時に(昨日の末吉の時は間違い)、南九に筋ジス専門病棟が開設されたことを新聞で知ります。父の職場の同僚の関係者が南九におられ(同僚のお父さんが当時事務におられた松尾さん。松尾保育士さんのお父さんでもあった)、すぐにつないでもらい見学をし、開設から1ヶ月後の1973年6月に入院しました。1番目の牛之浜兄弟から数えて11番目の入院でした。まだ9才の時でした。
私が彼に初めて会ったのが、1977年4月に初めて南九州病院に赴任した時である。彼のメールを読みながら当時のことに思い出している。牛之浜兄弟(ツイン)が最初の入院患者だったことも初めて知った。よく私がスライドで使っている20歳になった成人式の写真で、牛之浜兄弟の典彦君の遺影をお父さんが抱いて、友彦君はヒロシ君と一緒に写真に写っている。
最後に、愛媛大学の野元教授から「脊髄性筋萎縮症の治験がうまくいき、来年に、バイオジェンから申請の予定になっています。mRNAに作用するもので、神経疾患では初めての遺伝子(DNAではありませんが)治療といえると思います」というメールが届いたが、山田君などへの朗報である。
一つは「先生が招待されたけど行けなかったというのはこれだったのかな」という部分である。
実は松原小学校の東校長先生から、相撲大会とちゃんこ鍋に声を掛けられていた。昨年9月、私が4年生まで在籍した松原小学校を訪問して子どもたちに20分ほど話をして、その後、子どもたちから寄せ書きをもらったことは、この前院長雑感でも書いたことがある。
私もテレビは録画でみたが、みずえさんの古里への思いのよく感じられる番組になっていた。私の姉から聞いたところでは、みずえさんの実のお母さんが、このイベントの数日前に亡くなっていた(一人暮らしだった)そうだが、番組ではこのことは伏せていた。最後の方でサプライズとして花火も打ち上げられたが、「花火を見ながらの(みずえさんの)涙は催しの充実感だけではなかったんですね」だと推察できる。
もう一つは、やはり山田君と私の父は重なっていたという事実である。彼は1962年に生まれて、整肢園に入園したのが1968年だったということは、私の父が整肢園を退職したのは1972年だったのではないだろうか(1974年に、くも膜下出血で急逝している)。
その当時のことを彼は次のように振り返っている。
肢体不自由児の施設で、障害者とはいえ筋ジスと比べると皆はるかに元気な子ばかり。元気というより暴れん坊が多く、番長的な子は竹の棒を持って歩いていました。厳しい規律でないと園の大所帯はまとまっていかなかったのでしょうね。あの子供たちのスピードに付いて遊べていれば園の生活にも順応できていたのでしょうが、脊髄性筋萎縮症の場合、動揺性歩行でヨチヨチ歩いていては輪の中には入れませんでした(もっと重度の病状の重心の子たちもいましたが、病棟を別にして対応していました)。
その後は学校には通わずに家でずっとすごしました。我が子を不憫に思い両親は連れて帰ってくれましたが、日々育てながら私の先行きが見えないことは不安だったことでしょう。その頃の親たちは今の自分よりはるかに年下ですから、よく頑張れたものだと思います。父が輝北に赴任している時に(昨日の末吉の時は間違い)、南九に筋ジス専門病棟が開設されたことを新聞で知ります。父の職場の同僚の関係者が南九におられ(同僚のお父さんが当時事務におられた松尾さん。松尾保育士さんのお父さんでもあった)、すぐにつないでもらい見学をし、開設から1ヶ月後の1973年6月に入院しました。1番目の牛之浜兄弟から数えて11番目の入院でした。まだ9才の時でした。
私が彼に初めて会ったのが、1977年4月に初めて南九州病院に赴任した時である。彼のメールを読みながら当時のことに思い出している。牛之浜兄弟(ツイン)が最初の入院患者だったことも初めて知った。よく私がスライドで使っている20歳になった成人式の写真で、牛之浜兄弟の典彦君の遺影をお父さんが抱いて、友彦君はヒロシ君と一緒に写真に写っている。
最後に、愛媛大学の野元教授から「脊髄性筋萎縮症の治験がうまくいき、来年に、バイオジェンから申請の予定になっています。mRNAに作用するもので、神経疾患では初めての遺伝子(DNAではありませんが)治療といえると思います」というメールが届いたが、山田君などへの朗報である。
