故郷のために(前)(2016/11/22)
山田君は現在も南九州病院に入院しているが、私とは40年以上の付き合いになる。鉛筆画ではセミプロ級の腕前で(よくヘブパーンを好んで描く。たくさん描いていたが、手元にないので、いつか紹介したものを添付する。私は還暦の時にも描いてもらい、かつて出版した随筆集の表紙にも使わせてもらった)であり、また時々、プロ野球関係の選手や監督が著した著書(先日は栗山英樹の「未徹在」を送ってくれたが、まだ読んでいない)を送って来てくれる。彼は暦のように細かいことをよく覚えているので、当時の筋ジス病棟模様(患者さんの年齢や職員のことなど)を、聞きたいときにはすぐに応じてくれる。
彼を悩まし続けた病気は脊髄性筋萎縮症であり、知的には極めて高いものを持っている。これも時代の流れで決まることで致し方ないことだが、現在の状況だったら筋ジス病棟に入院することなく地域の学校から高校、大学にも進学できたと思われるが、時代の制約は誰一人として免れない。
先日、彼からメールが送られてきた。
今日(11月12日)はMBCテレビの「ズバかご」に、若嶋津の二所ノ関親方と高田みずえが頴娃へ帰郷したところが出ていました。昼間は松原小学校を力士とともに訪れて、子供たちと交流。夜は耳原の住民の皆さんたちとチャンコを食べながら手作り土俵で“耳原場所”を催していました。
先生が招待されたけど行けなかったというのはこれだったのかな。
夫婦で故郷におかえしをしたいという思いでまず親方の種子島、そして今回がみずえさんの頴娃だったそうです。育ててもらった地域の方々に喜んでもらうことができるなんて人生最高の幸せではないかと感じる放映の模様でした。
故郷に錦を飾る。
誰もができることではないこと、それができるところまでご夫婦で達したということに感慨も一入だったことでしょう。
私はこうして44年も入院していると本籍地はあっても生まれ故郷という場所の実感がありません。
父が最初に教職に着いた宮崎県で生まれ、その後実家のある鹿児島県に戻り(実家は大隅町岩川)財部、輝北、末吉と移り、この時に10歳で南九州病院に入院した。
その前にも財部の時に、就学のため県立整肢園に入ったこともありました(今もあるのかな)期間は小学校入学前から小学2年の途中まで。園で生活や治療をしながら併設されていた県立鹿児島養護学校伊敷分校(当時の校名)に通いました。退園した理由は簡単にいえばホームシック。上は中学3年生から下は未就学児まで100人程の団体生活は、意志を持たない子供には厳しさの多い毎日でした。食事と3時のおやつ以外の食べ物は禁止でお菓子を持っていると没収。テレビは食堂に1台あり日曜日の夜だけみんなで集まって見た。家族との面会は月に1回、帰省は夏休みと冬休みのみと決められており、一度春休みも帰らせてくれと父が園と話し合ったことを記憶している。
一日の日課も寮母が監視の中しっかりと定められ、昔のことだから上下関係も時に理不尽だったり。面会の度、電話をかける度に泣いている我が子に親も突き放せなくなり連れて帰った。
話しがずいぶん横道にそれましたが、そんなことで地域で育まれて生きてこなかったから実家はあっても故郷がない。私にとっての故郷はずっと育ててきたこの病院(や養護学校)ということになるのでしょうか。
今日の放送を見て、私も故郷にお返しができるような人間であったらなぁと思いましたが、今のところ故郷(病院)には面倒をかけるぐらいしかできません。親方夫婦に感動し、自分に勘当したくなりました。
彼を悩まし続けた病気は脊髄性筋萎縮症であり、知的には極めて高いものを持っている。これも時代の流れで決まることで致し方ないことだが、現在の状況だったら筋ジス病棟に入院することなく地域の学校から高校、大学にも進学できたと思われるが、時代の制約は誰一人として免れない。
先日、彼からメールが送られてきた。
今日(11月12日)はMBCテレビの「ズバかご」に、若嶋津の二所ノ関親方と高田みずえが頴娃へ帰郷したところが出ていました。昼間は松原小学校を力士とともに訪れて、子供たちと交流。夜は耳原の住民の皆さんたちとチャンコを食べながら手作り土俵で“耳原場所”を催していました。
先生が招待されたけど行けなかったというのはこれだったのかな。
夫婦で故郷におかえしをしたいという思いでまず親方の種子島、そして今回がみずえさんの頴娃だったそうです。育ててもらった地域の方々に喜んでもらうことができるなんて人生最高の幸せではないかと感じる放映の模様でした。
故郷に錦を飾る。
誰もができることではないこと、それができるところまでご夫婦で達したということに感慨も一入だったことでしょう。
私はこうして44年も入院していると本籍地はあっても生まれ故郷という場所の実感がありません。
父が最初に教職に着いた宮崎県で生まれ、その後実家のある鹿児島県に戻り(実家は大隅町岩川)財部、輝北、末吉と移り、この時に10歳で南九州病院に入院した。
その前にも財部の時に、就学のため県立整肢園に入ったこともありました(今もあるのかな)期間は小学校入学前から小学2年の途中まで。園で生活や治療をしながら併設されていた県立鹿児島養護学校伊敷分校(当時の校名)に通いました。退園した理由は簡単にいえばホームシック。上は中学3年生から下は未就学児まで100人程の団体生活は、意志を持たない子供には厳しさの多い毎日でした。食事と3時のおやつ以外の食べ物は禁止でお菓子を持っていると没収。テレビは食堂に1台あり日曜日の夜だけみんなで集まって見た。家族との面会は月に1回、帰省は夏休みと冬休みのみと決められており、一度春休みも帰らせてくれと父が園と話し合ったことを記憶している。
一日の日課も寮母が監視の中しっかりと定められ、昔のことだから上下関係も時に理不尽だったり。面会の度、電話をかける度に泣いている我が子に親も突き放せなくなり連れて帰った。
話しがずいぶん横道にそれましたが、そんなことで地域で育まれて生きてこなかったから実家はあっても故郷がない。私にとっての故郷はずっと育ててきたこの病院(や養護学校)ということになるのでしょうか。
今日の放送を見て、私も故郷にお返しができるような人間であったらなぁと思いましたが、今のところ故郷(病院)には面倒をかけるぐらいしかできません。親方夫婦に感動し、自分に勘当したくなりました。
