Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

奄美大島の旅(5)(2016/11/15) 

研修会半ばでの休憩のときに、奄美中央病院の看護部長だという益田さんから名刺をもらった。このことがきっかけで、この後、うれしく思いがけない方向に展開していった。
 「奄美中央病院と言えば、社会医学研究会の先輩である永吉先生が長い間院長されていましたよね。いつごろ亡くなられましたかね。・・・そういえば、ALSの田中さんもお世話になりました」と切り出すと、「先生、永吉先生はまだお元気ですよ。田中さんには私も長い事、関わらせていただきました。病院とご自宅が近かったので、在宅で療養されたり、呼吸器を付けてからは病院で闘病されることも多くなりました。そういえば、体外式の人工呼吸器をみたのは初めてでしたよ」などと言われる。「そういえば田中さんのご自宅は病院の近くでしたよね」と話を向けると、「病院のすぐ近くの傾斜地にあります」。
 研修会が終わり、ホテルに帰ることになって、世話好きの里中さんが「先生、田中さんの所に行ってみませんか」と言われる。「でも30年近く前のことだから、病院の近くといってもわかるだろうか・・・」と言うと、そこは里中さん「私が奄美中央病院の場所はよく知っていますので、その辺りから山の方に向かったらどうでしょうか」。「私も30年ほど前に2,3回、ご自宅に訪問したことはあったけど、もうずいぶん回りの景色も変わっただろうし、宇宙船から地球の家を探すようなものかもしれないよ・・・」と言いながら車を走らすことにした。里中さんの運転するレンタカーは奄美中央病院の前を通り、近くの上り坂をあてずっぽうに登り始める。すると三叉路になり「右の方に行こうか」と言いながらしばらく上ると、大きな2階建ての白い家(白亜の殿堂と名付けていた)が2軒ならんでいて、その前に「九宝社」と染め抜かれた車が数台置かれている。
 1984年に私が南九州病院に異動してしばらく経った頃、50歳ぐらいの小柄な中年の男性がALSで入院したことがあった。病気が少しずつ進行し、郷里の奄美に帰って療養したいという希望で、私はYS-11機に同乗してご自宅まで搬送したことがあった。その時、坂の上に立っていた白い瀟洒な建物が強く印象に残っていた。
 若いころ、田中さんは定職もなく、小宝島で作業員の仕事をしていて、ある時に小料理屋さんでいつものように飲んでいた。その時に偶然、九電の人と隣り合わせになり、送電線の下に道を作り、管理する仕事があることを知った。島では台風とハブが難敵で、送電線の補修のためにすぐに駆けつけられるように、大きな送電線の直下には1メートルほどの道が作られているのだという。その後田中さんは、会社を興し「九宝社」と名付けた。九は九電から、宝は小宝島からで、そして小料理屋の女将さんと結婚したのである。
 田中さんはその後呼吸器が必要になり、体外式陰圧人工呼吸器、そして気管切開されて陽圧式の呼吸器を付けながら、十数年闘病生活を続けたのではないだろうか。その後、音信がなくなり、いつごろ亡くなったのかは正確には知らない。