Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

奄美大島の旅(2)(2016/11/09) 

一村美術館は笠利町の旧飛行場跡の広大な敷地の一画にあり、不断は入場料が510円ということだったが、文化の日ということで観覧料は無料となっていた。館長はあの宮崎緑さんだということだが、館内は静かでまだ早かったためか館内には我々3人だけで、ゆっくりと鑑賞することができた。
 一村は生前ほとんど無名だったが、没後大きなブームをわき起こした画家として日本のゴーギャンとも称されている。一村の育った時代を考えるに、明治41年の生まれで大正、そして昭和と、戦争をはさんで日本がまだ貧しかったころである。昭和52年に69歳で奄美の地で没しているが、生前には中央画壇では全く注目されずに、個展も一度も開かれたことはなかったという。
 一村の経歴を追うと、幼少時は神童と呼ばれ、いわゆる絵師として南画(水墨画)に才能を発揮し、7歳の時には児童画展で受賞、10代ですでに蕪村や木米などを擬した南画を器用に描いていたという。ただあまりにも早熟だったために、(親に利用されたかは分からないが)生活費を稼ぐために、富裕な大人に気に入られそうな絵をせっせと描いていたようである。18歳の時に東京美術学校日本画科に入学するが、なぜか2ヶ月ほどで退学する。結核のためという説もあるが、それでも絵を描くことが出来たところをみると学業が続けられないほど重症ではなく、本当の理由は分からない。同級生にはあの東山魁夷や橋本明治がいることを考えると、もし中退していなければどのような生涯を送ったのかも興味がある。
 23歳の時に「桜之図」を発表、それまでの南画と決別し中国の宮廷画家が描くような「院体画」に近づく。この絵では、奄美時代の基になるような写実的で精緻な描写となる。この頃から院展や日展に出品するが、ことごとく落選の憂き目に遭い、自尊心を傷つけられたようである。いわゆる長い不遇の時代の始まりである。
 昭和33年、50歳の時に奄美大島に移り住むことを決意、大島紬の染色工などで生計を立てながら絵を描き続けた。それまでは千葉で実姉と住んでいたようだが、単身での出発となる。
 奄美時代は最後の部屋に展示されているが、圧倒的な迫力を感じる。絵が生き生きと描かれ、世間の毀誉褒貶を超越した、清々しい印象を絵の中に受ける。代表的な作品である「アダンの海辺」など亜熱帯の野性的な植物、原色鳥魚類、動物などは、「見せるためではなく自分のために最善を尽くすという気持ちだけで描いた」ということだが、だからこそ後世の観る者に、大きな感動を呼び起こすのだろう。これから訪問する和光園にも、小さな部屋を借りて住んでいた時期もあったという。患者との交流もあったようで、似顔絵など書いてもらった人もいたようだ。ただ当時の写真を観ると、痛ましいほどに痩せ衰えている。それでも都会の物心両面での喧騒を離れて、奄美の豊かな人情に触れながら彼なりの平穏を得ていたのではないだろうか。