Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

筋ジス病棟あれこれ(前)(2016/12/21) 

ケアアシスト 紫陽花の橋口さんがとある用件で部屋を訪ねて来てくれて、しばし「昔話」に花が咲いた。橋口さんの息子さんの賢一君は筋ジストロフィーのために、16年ほど前に20歳の若さで亡くなった。「この10月に、賢一と同級生だった宮原君が亡くなりました。私が見舞に行ったその夕方に亡くなられたということで、最後の見舞客ということになるようです。筋ジスは歳を取るとこんなに小さくなるのだとびっくりしました・・・36歳でした」という。そして同じ部屋で闘病していた松山君も11月に亡くなられたそうである。松山君は小学校に入学する前に大阪から故郷の鹿児島に帰って来たが、お父さんがよく病院にも来られていたので印象に残っている。宮原君よりちょっと年上だったので、38歳近くになっていただろうか。筋ジス病棟(現在は療養介護病棟と呼ぶのかな)の責任者として私の後を継いでくれている南九州病院の園田先生が、私が主治医をしていた患者さんが亡くなると連絡してくれるのだが、そうでない患者さんの場合には消息がわからないのである。        本棚から平成5年に作った「20周年記念誌」を引き出して開けてみる。その中の「心に残ったこと(子供会)」という欄に、宮原君は「卓球バレー大会」というタイトルで、「6月の卓球バレー大会では、全しあいまけたけどたのしかったです 」とだけ書いている。松山君は「そつぎょう式の思い出」というタイトルで、「ぼくはそつぎょう式の前にドキドキしていました・・・」と書いているので、小学校の卒業式のことだろうか。
        宮原君のことでよく覚えているのは、答えることに窮した彼の「質問」である。小学4年の時に奄美大島から転校してきたが、しばらく経った頃、保母さんが「先生、ぜんこう君から難しい質問を受けたのですが、どのように答えたらいいものでしょうか」というものだった。その質問の内容が次のようなものである。
どうして僕は薬を飲まなくていいの?僕は生まれてからずっと病気だよ。手や足の病気でほかはどこも悪くないからもとの学校に帰りたい。この病棟で歩けるようになって退院 した人はいるの?病気が治らないなら家に帰りたい。
        私はこのことを講演でよく話題にするが、その時に一緒に取り上げるのが次の短歌である。
        『治るよね』 問いくる子等の澄める眼に うんと言う嘘神許されよ(岩崎義治)
         岩崎さんは脊髄性筋萎縮症で私より二つ年上であるが、当時南九州病院に入院されており、短歌の領域で素晴らしい才能を発揮されていた。幼い子供の率直な疑問にどのように答えるべきか、一つの参考になる。
         その岩崎さんから、「先生、12月16日に『忘年会』をしたいと思うのですが、来ていただけますか」という電話を受け取った。「喜んで」という返事をしたが、岩崎さん、そして吐合姉妹、そして私の4人が一緒に揃うのは昨年の11月29日に「みゆきを励ます食事会」以来である。
        過去にさかのぼって調べてみると、平成16年12月16日、ちょうどこの日に、あのパク・ヨンハが南九州病院を訪れた日にも、岩崎さんの所で忘年会をしていた。悦子がこよなく好きだったパク・ヨンハが空港への移動中に悦子の病室まで立ち寄ってくれたので病院中は大騒ぎとなった。ところが彼も、数年前に自殺してしまった。
        (下記は時間のある時にでも読んでください。個人的には懐かしいです)。
■ 89・48(パク・ヨンハ)狂想曲(平成17年1月雑感から)
         平成16年12月16日、岩崎、吐合さん(長いこと入院していた筋ジス病棟を退院し、支援費制度を活用して自立を決意)から忘年会の招待を受けていた。
         やっと目指すマンションの前に辿り着いた時、私の携帯に「パク・ヨンハが来ました。悦子はポーッと固まっています」という園田医長のメールがはいった。
         この時から狂想曲ははじまる訳であるが、もちろんそこに至るまでには、重なる軌跡や人々の善意など長いドラマがあったのはいうまでもない。
         この日の夕方、園田先生から「吐合さんから電話があって、夕方、ヨンハさんが空港に向う途中、立ち寄るらしい」という連絡があった。
         18日からの揖宿での日韓首脳会談に向けてのイベントにヨンハさんが来鹿するということで、鹿児島中央駅付近は騒然たる雰囲気にあるとテレビや新聞は連日伝えていた。
         しかし個人的にはその時までヨンハさんについては全く知らなかったけど、「どうして、美智恵に連絡があったのだろう」という疑問は残った。
         私にとってはその夜は何事もなく、岩崎さんや問題の吐合姉妹、そしてヘルパーさんと鍋を囲みながら、ヨンハさんのことを話題にすることもなく楽しく過ごした。
         翌日、朝刊にはイベント広場に8千人が詰め掛けたことなどは報じられているが、悦子が「ヨンハさんの電撃訪問」を受けた記事はまだ報じられていない。
         ところが病院ではこの話題で持ちきりであった。「勝ち組、負け組、無関心組」に分かれて一部には険悪なムードさえ漂っていた。「勝ち組」の筆頭は、もちろん悦子本人である。
         聞くところによると、ヨンハさんは、枕もとで手を握りながら10分ほど滞在したとのこと。夢うつつの心境で、茫然としていたという。呼吸器をつけているため声を出せないので、五十音表を棒で指しながら「これからもドラマや音楽に頑張って」など話した。
         悦子はパソコンがうてる頃には、求愛の詩や小説をたくさんホームページにも載せているが、最愛の人に出会って、「事が成就した夜」だったに違いない。
         そして勝ち組の二番手は、筋ジス病棟の担当師長の小川さんかも知れない。冬ソナの韓国の旅にも参加したほどの韓流ファンということで、握手までして興奮冷め遣らぬまま、当日近くで開かれていた師長会の忘年会に参加した。会場ではやっかみの怒号も飛び交ったという。
         それでも多くの師長さんが、間接的な握手を求めて手のひらが痛いほどだったというが、真偽の程はわからない。
         また、たまたま当直だった末永師長は、「長い間当直やってきて、今夜ほど当直に当たってよかったと思った日はありませんでした」とまだ顔を赤らめたまま話していた。
         さらに4病棟に入院中の64歳の女性は、2箇所の病院でトラブルが続き、先日転院してきたばかりであったが、「この病院に転院してきて本当によかった」と話されていたというが、病院や主治医の立場も考えて発言して欲しいものだ。
         「負け組」の筆頭は、回りも気遣うほどの落胆振りだったという小児科の女医さん、武先生だろう。年休を取ってイベント広場に駆けつけたかったというヨンハファンだったらしいが、運の悪いことに忘年会の買出しに出かけていた。「なぜ教えてくれなかったの」と園田先生は詰め寄られたというが、「それほど入れ込んでいたと知っておれば」は後の祭りだ。
         また筋ジス病棟でも来訪を知っていたのは一部の患者さんで、筋ジス病棟の車椅子に乗った4人の「おばさん」患者さんからは、「どうして教えてくれなかったんですか」と大変な剣幕だった。
         一方、無関心派の神経内科内田先生は、「玄関前のリムジンなどの車列を見て、早々に逃げ帰りましたよ。子供を風呂に入れなければならなかったので」と武先生の怒りを逆なでするような発言もあった。
         私も無関心派だったが、訪問者が「チェ・ジウ」だったら残っていただろうな。
         ところで、どうして美智恵に連絡があったかについては、悦子が主催者(福岡)に送った一通の手紙のコピーを読んで氷解した。その手紙の中で、自分の病状、ヨンハさんの大ファンであること、寝たきりの状態なのでサイン会に行けそうにないこと、そして最後には「今このチャンスを逃したら、私はもうヨンハさんに会える事はこれから先ないと思います」と脅迫まがいの言葉まで並べている。そして最後に、自分は電話でしゃべるのはできないので、連絡は吐合さんにお願いしたいと、携帯の電話番号を記していた。
         翌朝、このあたりの経緯について尋ねた後、悦子曰く「やるときはやる」だって、とてもかなわないな。
         今回、ヨンハさんが電撃訪問してくれたのは、悦子の気持ちを主催者が理解してくれたこと、当院が空港に近かったこと、そして何よりヨンハさんが、関係者が飛行機の出発時刻を気にする中で「10分でも会いに行こう」と決断してくれた優しい気持ちによるものと思う。
         これほどまでの韓流ブームの背景には、韓国スターのなかに礼節や優しさ、清潔さなど古来、日本人の美徳とされていたものを思い起こさせてくれるものがあるということだろうか。みんなの協力いかんにかかっている。