畠山先生のご逝去(後)(2017/01/13)
そして敏秀は、畠山さんの工夫してくれたKBマウスを駆使して、詩作やインターネットの世界に入っていったが、「一つの機器がこんなに新しい世界と意欲をもたらしてくれるとは予想できなかった」とその著書「光彩」(1993年、平成5年発刊)の中で述べている。
また敏秀との合作による「電動ミラー」の製作も、畠山さんらしい利用者の思いに応えた傑作である。呼吸器をつけ寝たきりの天井だけを見つめる生活のなかで、「自分の状態や状況把握を行いたい」と言う。具体的には「食事メニューを眺め、ベッドサドを訪ねてくれる人たちとの空間を共有したい。人工呼吸器の作動状況も確認したい」との希望で、「自由に動く魔法の鏡」を畠山さんが実現させた。畠山さんの目線はいつも患者さんと同じ高さにあり、その後もずっと、障がいのある人々の生活に役立つ機器開発を行っていく。
その敏秀は平成10年8月3日に亡くなった。敏秀の遺言の一つに記されていた「新燃岳に遺灰を撒いて欲しい」は実現し、その後毎年、畠山さんをはじめゆかりの人たちで慰霊の登山を続けていたが、新燃岳の噴火以降、それも叶わなくなった。
当時毎日新聞の白戸圭一記者は「筋ジスと闘いながら数々の福祉機器、世に」という見出しで、リハビリ工学を研究する二人の仲間(畠山さんと岡本さん)との関わりに触れている。
亡くなる二日前、ついに目と唇動くだけになった。畠山さんが轟木さんの目を見ると、瞬きを繰り返し、何かを訴えていた。「目でパソコンを操作するっていうのか。思わず声を上げると、轟木さんは目でうなづいた。畠山さんはもうゆっくり安もうやと、のど元まで出かかったが、言えなかった。『そうか、目か、また新しい機械を作らなきゃ』と言うと、静かに目を閉じた。最後まで人間らしく生きることを絶対にあきらめなかった」と書かれていた。
また畠山さんがよく学生に語ることで、敏秀に教えられたこととして、一つは「畠山さん、このベッドに寝てみてくださいよ」と言われたということ、もう一つはグリーンスパ姶良に奥さんと一緒に宿泊中、夕食の時「うんこ」と言って、介助をすることになったときだという。後者の時は私も呼吸の状態が気になっていたので、隣室に泊まることにした。夕食の時には私も同席していたので、「敏秀のバカが、よりによってこんな時に。ちょっとぐらい我慢せ!」と私は思ったが、畠山さんは「私に介護の仕方を教える機会を作ってくれているのだと思った。特に排せつの世話を任せてくれるのは、それだけ信頼されているということで、うれしい限りでした」と言われていた。
最後に畠山さんが娘さんに託していた言葉を紹介する。
「お父さんに万が一のことがあったら、フェイスブックにログインして友達に伝えてください。多くの人におせわになったこと。本人は精一杯、生き抜こうとしたこと。最高に幸せな人生を送ったこと」。
畠山さんは私より若く、これからも障がいを持つ多くの人たちに福音をもたらしてくれる人だった。「最高に幸せな人生を送った」という最後の言葉でちょっとホッとするが、もっともっと生きていてほしい人だった。近く機会をつくって、畠山さんの思い出を語りたい。
また敏秀との合作による「電動ミラー」の製作も、畠山さんらしい利用者の思いに応えた傑作である。呼吸器をつけ寝たきりの天井だけを見つめる生活のなかで、「自分の状態や状況把握を行いたい」と言う。具体的には「食事メニューを眺め、ベッドサドを訪ねてくれる人たちとの空間を共有したい。人工呼吸器の作動状況も確認したい」との希望で、「自由に動く魔法の鏡」を畠山さんが実現させた。畠山さんの目線はいつも患者さんと同じ高さにあり、その後もずっと、障がいのある人々の生活に役立つ機器開発を行っていく。
その敏秀は平成10年8月3日に亡くなった。敏秀の遺言の一つに記されていた「新燃岳に遺灰を撒いて欲しい」は実現し、その後毎年、畠山さんをはじめゆかりの人たちで慰霊の登山を続けていたが、新燃岳の噴火以降、それも叶わなくなった。
当時毎日新聞の白戸圭一記者は「筋ジスと闘いながら数々の福祉機器、世に」という見出しで、リハビリ工学を研究する二人の仲間(畠山さんと岡本さん)との関わりに触れている。
亡くなる二日前、ついに目と唇動くだけになった。畠山さんが轟木さんの目を見ると、瞬きを繰り返し、何かを訴えていた。「目でパソコンを操作するっていうのか。思わず声を上げると、轟木さんは目でうなづいた。畠山さんはもうゆっくり安もうやと、のど元まで出かかったが、言えなかった。『そうか、目か、また新しい機械を作らなきゃ』と言うと、静かに目を閉じた。最後まで人間らしく生きることを絶対にあきらめなかった」と書かれていた。
また畠山さんがよく学生に語ることで、敏秀に教えられたこととして、一つは「畠山さん、このベッドに寝てみてくださいよ」と言われたということ、もう一つはグリーンスパ姶良に奥さんと一緒に宿泊中、夕食の時「うんこ」と言って、介助をすることになったときだという。後者の時は私も呼吸の状態が気になっていたので、隣室に泊まることにした。夕食の時には私も同席していたので、「敏秀のバカが、よりによってこんな時に。ちょっとぐらい我慢せ!」と私は思ったが、畠山さんは「私に介護の仕方を教える機会を作ってくれているのだと思った。特に排せつの世話を任せてくれるのは、それだけ信頼されているということで、うれしい限りでした」と言われていた。
最後に畠山さんが娘さんに託していた言葉を紹介する。
「お父さんに万が一のことがあったら、フェイスブックにログインして友達に伝えてください。多くの人におせわになったこと。本人は精一杯、生き抜こうとしたこと。最高に幸せな人生を送ったこと」。
畠山さんは私より若く、これからも障がいを持つ多くの人たちに福音をもたらしてくれる人だった。「最高に幸せな人生を送った」という最後の言葉でちょっとホッとするが、もっともっと生きていてほしい人だった。近く機会をつくって、畠山さんの思い出を語りたい。
