十数年ぶりの再会(2017/02/23)
昨日のことである。
昼過ぎに院長室で仕事をしていると、秘書の鳥居さんが入ってきた。「外来窓口で○○拓夫さんという方の娘さんが来られているそうですがどうしましょうか」ということだった。その名前には憶えがあったので「今からすぐ行きます、と返事してください」と告げた。
外来には、娘さんと奥さんも同行されていたので、カフェでコーヒーを飲みながら、いきさつを聞くことになった。
「母が串木野市の集団検診で異常を指摘されて、花牟礼病院を受診したら膵臓に問題がありそうだと言われました。大学病院を紹介しましょうか、と言われたのですが、先生が南風病院におられることを思い出して、早速受診した次第です。先生のメールアドレスが分らなくなって連絡できませんでした」ということ。娘さんは現在、串木野養護学校で仕事をしながら、鹿児島大学の大学院にも通っているという。
「○○さんとのお付き合いはいつごろからでしたでしょう」と尋ねると、「父と南九州病院を受診したのは、私が中学3年だったかと思います。というと30年近く前になりますね」ということ、やはり筋ジスに係る話はスパンが長い。
「でも、早く病気が見つかってよかったですね。難しい手術になると思いますが、きっとうまくいくかと思います」と励ましながら席を後にした。
部屋に戻って早速検索すると、平成18年の雑感に下記のようなものがあった。
「減らず口」
先週の日曜日の朝、元加治木養護学校の先生から頂いた種子島のフリージアを持って谷山生協病院に見舞いに行くと、Nさんは意識はなく昏睡状態で人工呼吸器を付けておられた。枕元には、奥さんと鹿児島盲学校の先生をされている一人娘の理恵さんが付き添っていた。
見舞いに行った日の前日、理恵さんから私のパソコンにメールが入った。お父さんが喉に痰を詰まらせて意識のない状態で谷山生協病院に運ばれたこと、主治医からたとえ意識が回復しても人工呼吸器は外せないことを告げられたという。そこで家族で話し合って、「父の希望に添って気管切開は行わずに、このままの状態で見守りたい」、そして「心停止になっても無理な心臓マッサージは行わずに自然に任せたい」と主治医と治療方針を文書で確認したという内容だった。さらに「生きているのに『何を言うんじゃ』と父に怒られそうですが、父がかねがね『死んで役に立つなら病理解剖を』と言っていましたので、どうしましょうか。父は『タダで解剖は嫌じゃ。お金はちゃんともらえよ』と言っていましたが、困ったやつでして・・・」と言うようなことも書き添えられていた。
Nさんは脊髄性進行性筋萎縮症のため、特に両下肢の筋力低下があり30歳を過ぎた頃から車椅子の生活だったが、両手の力はあったので印鑑屋さんを営んで立派に自立していた。結婚され子供さんにも恵まれて、理恵さんの言葉を借りると「町内会長をしたり、全く普通の人と変わりなかった」ということだった。南九州病院には書類が必要になったときに来られるくらいだったが、堂々とした立ち振る舞いでまさに「自立」と「自律」という言葉がぴったりの人だった。時には電話で「病院批評」を聞くこともあり、障害を持ちながらも社会の中できちんと生活してきただけあって、Nさんの言葉を借りれば「ぬくぬくと生活している」入院している筋ジス患者さんが我慢ならないという感じだった。新聞の投書欄に、「どこそこに旅行に行って楽しかった」というような生活感のない甘っちょろい言葉には、辟易しているというような辛辣な言葉も憶えている。
>意識が戻ってくれることを期待しますが、でもお父さんらしいですね
ですよね。最期まで入院を嫌がって・・・でも自分で選んだことですので、父らしいと思います。
>お父さんの意識が戻って、「減らず口」期待しますが。
はい。文句をいいながら起きそうな気もします。でも人工呼吸器に繋がれていることも、父にとっては不本意かも知れません。
「解剖に関してはお父さんの意志を生かしたいが、いろいろ段取りを考えると無理かもしれない」と話すことだった。でも筋ジス病棟に長く入院していても剖検に応じられない家族が増えてきたことを考えると、Nさんはやはり凄い人だ。「無理な延命は行わない方がいいと思う」と話しながら、病院を後にした。 翌日、理恵さんから次のようなメールが入っていた。
「病院までわざわざお越しいただき、ありがとうございました。母も私も嬉しかったですが、父はもっと嬉しかったと思います。先生のくださったフリージアの香りが病室一杯 に広がっています。花が大好きだった父ですので、きっと喜んでいると思います。先生が帰り際におっしゃってくださった言葉で、いろんなことにふん切りがつきました。すべきことをやって、その時を待ちたいと思います」。
その時は、平成18年4月6日午後2時45分だったという。ご冥福を心よりお祈りしたい。
昼過ぎに院長室で仕事をしていると、秘書の鳥居さんが入ってきた。「外来窓口で○○拓夫さんという方の娘さんが来られているそうですがどうしましょうか」ということだった。その名前には憶えがあったので「今からすぐ行きます、と返事してください」と告げた。
外来には、娘さんと奥さんも同行されていたので、カフェでコーヒーを飲みながら、いきさつを聞くことになった。
「母が串木野市の集団検診で異常を指摘されて、花牟礼病院を受診したら膵臓に問題がありそうだと言われました。大学病院を紹介しましょうか、と言われたのですが、先生が南風病院におられることを思い出して、早速受診した次第です。先生のメールアドレスが分らなくなって連絡できませんでした」ということ。娘さんは現在、串木野養護学校で仕事をしながら、鹿児島大学の大学院にも通っているという。
「○○さんとのお付き合いはいつごろからでしたでしょう」と尋ねると、「父と南九州病院を受診したのは、私が中学3年だったかと思います。というと30年近く前になりますね」ということ、やはり筋ジスに係る話はスパンが長い。
「でも、早く病気が見つかってよかったですね。難しい手術になると思いますが、きっとうまくいくかと思います」と励ましながら席を後にした。
部屋に戻って早速検索すると、平成18年の雑感に下記のようなものがあった。
「減らず口」
先週の日曜日の朝、元加治木養護学校の先生から頂いた種子島のフリージアを持って谷山生協病院に見舞いに行くと、Nさんは意識はなく昏睡状態で人工呼吸器を付けておられた。枕元には、奥さんと鹿児島盲学校の先生をされている一人娘の理恵さんが付き添っていた。
見舞いに行った日の前日、理恵さんから私のパソコンにメールが入った。お父さんが喉に痰を詰まらせて意識のない状態で谷山生協病院に運ばれたこと、主治医からたとえ意識が回復しても人工呼吸器は外せないことを告げられたという。そこで家族で話し合って、「父の希望に添って気管切開は行わずに、このままの状態で見守りたい」、そして「心停止になっても無理な心臓マッサージは行わずに自然に任せたい」と主治医と治療方針を文書で確認したという内容だった。さらに「生きているのに『何を言うんじゃ』と父に怒られそうですが、父がかねがね『死んで役に立つなら病理解剖を』と言っていましたので、どうしましょうか。父は『タダで解剖は嫌じゃ。お金はちゃんともらえよ』と言っていましたが、困ったやつでして・・・」と言うようなことも書き添えられていた。
Nさんは脊髄性進行性筋萎縮症のため、特に両下肢の筋力低下があり30歳を過ぎた頃から車椅子の生活だったが、両手の力はあったので印鑑屋さんを営んで立派に自立していた。結婚され子供さんにも恵まれて、理恵さんの言葉を借りると「町内会長をしたり、全く普通の人と変わりなかった」ということだった。南九州病院には書類が必要になったときに来られるくらいだったが、堂々とした立ち振る舞いでまさに「自立」と「自律」という言葉がぴったりの人だった。時には電話で「病院批評」を聞くこともあり、障害を持ちながらも社会の中できちんと生活してきただけあって、Nさんの言葉を借りれば「ぬくぬくと生活している」入院している筋ジス患者さんが我慢ならないという感じだった。新聞の投書欄に、「どこそこに旅行に行って楽しかった」というような生活感のない甘っちょろい言葉には、辟易しているというような辛辣な言葉も憶えている。
>意識が戻ってくれることを期待しますが、でもお父さんらしいですね
ですよね。最期まで入院を嫌がって・・・でも自分で選んだことですので、父らしいと思います。
>お父さんの意識が戻って、「減らず口」期待しますが。
はい。文句をいいながら起きそうな気もします。でも人工呼吸器に繋がれていることも、父にとっては不本意かも知れません。
「解剖に関してはお父さんの意志を生かしたいが、いろいろ段取りを考えると無理かもしれない」と話すことだった。でも筋ジス病棟に長く入院していても剖検に応じられない家族が増えてきたことを考えると、Nさんはやはり凄い人だ。「無理な延命は行わない方がいいと思う」と話しながら、病院を後にした。 翌日、理恵さんから次のようなメールが入っていた。
「病院までわざわざお越しいただき、ありがとうございました。母も私も嬉しかったですが、父はもっと嬉しかったと思います。先生のくださったフリージアの香りが病室一杯 に広がっています。花が大好きだった父ですので、きっと喜んでいると思います。先生が帰り際におっしゃってくださった言葉で、いろんなことにふん切りがつきました。すべきことをやって、その時を待ちたいと思います」。
その時は、平成18年4月6日午後2時45分だったという。ご冥福を心よりお祈りしたい。
