井形先生を偲ぶ会(後)(2017/02/03)
ご長男の井形 弘様(東大工学部卒業後、トヨタ)のご挨拶文が、追悼文集に掲載されている。井形先生の別の一面を知ることもできるので、(許可も得ず勝手に)転載させていただきたいと思う。私はこの2月に刊行予定の鶴陵会雑誌に、評伝「井形昭弘」を書かせてもらっている。もし追悼文集やこの「挨拶文」を先に眼にすれば、少し変わった書き方もできたかもしれない。また奥さまについては触れなかったが、控えめで教授夫人としては最高の女性だったといえる。少し触れておくべきだったと後悔している。
(挨拶文)本日は、多事多端の折、亡き父 井形昭弘を偲ぶ会にお集まりいただき、真にありがとうございます。
私は、幼少時より父に連れられドイツ ビュルツブルグ、群馬県 浅間、埼玉県 和光市などに育ちました。和光市は皆様ご案内の通りSMON病が集中発生し原因解明まで「戸田の奇病」と呼ばれた、その戸田市の隣町です。前回の東京オリンピックのボート会場に選ばれVIPの来訪も増えるので予防的に下痢止め剤キノホルムが大量に処方された結果薬害が起きてしまった、と聞きました。
当時の私は自分達を東京育ちのように誤解していましたので、父が突然鹿児島大学に赴任すると聞いたときは正直驚きましたし、鴨池空港に降り立って以降、日々、大きなカルチャーショックを受け続けました。父は後に、この時は小遣いを2倍にし、毎月和光市に遊びに行くことを許したので沈静化したと述壊しておりますが、実際に小遣いが増えたのか記憶にありませんし、当然ながら和光に帰ることもほとんどなく、妹ともども徐々に鹿児島の地に慣れ親しみ、桜島の雄大な景色に励まされて高校卒業までを過ごさせて頂きました。
父を鹿児島大学に推薦くださった豊倉康夫先生は鹿児島にはゆかりの方で、赴任にあたって「鹿児島では西郷さんと焼酎の悪口を言ってはいけない」とアドバイスされ、父はその言いつけをしっかり守り、元々酒好きでしたので焼酎をこよなく愛し、やがて天文館の主になっていったようです。
父は、自分も好きな道を選んだのでと、子供に対しても自分の好きな道に進むように言ってくれましたので、私も妹も医学の道には進みませんでしたが、「分からない、治らない、でも、諦めない」の三内イズムや、「自分の勉強は大したことはないが、皆さんが成長する邪魔をしないという考え方でやってきたら、多くの優秀な先生が慕ってついて来てくださり、今や日本中で大きな成果を上げてくださっている」といった話をいつもうれしそうに語っておりました。
着任当時、鹿児島大学病院は移転前で城山町にあり、第三内科は旧病院の裏の質素なプレハブ建築の中にありました。子供心にも少し心配になったものです。父はよく、お客様が見えたときは建物の外観を見られないように体で窓を塞いで案内するなどとジェスチャーをしながらおどけて話しておりましたが、それだけに桜が丘に移転した新病院の立派さが印象に残っております。
私たち子どもに取っては、幼い頃はとにかくいつも仕事に忙しくなかなか遊んでもらえない父親ではありましたが、長じて後、父が現役で生涯を終えるまでの間は、その常に前向きな考え方、旺盛なる好奇心、粘り強いコミュニケーション、ユーモアを忘れず、また、やさしいだけでなく時に芯を通す強さ等、あらゆる面で越えられない存在となっておりました。
母が他界してからは、愛知県のマンションに一人で住まっておりましたが、安売りの食材を目ざとく見つけて自炊までする立派な生活ぶりでした。私や妹が訪れたときは朝食も振舞ってくれました。近年、私や妹も、囲む会に参加させていただき、また、家族とさまざまな思い出の地に旅行する事ができたこと、お互いの出張の機会等に色々な昔話を聞くことができたことはとても幸せなことであったと思います。
八月一二日、一人で自宅の片づけをしている時に急に息苦しくなり、自力で救急車を呼びましたが、病院に着くまでの間に心肺停止に陥ったと聞きました。健やかな長寿社会の実現を目指し、最後の一瞬まで現役を貫き、周囲に全く迷惑をかけることなく、主唱していた通りの「ピンピンコロリ」を見事に実践し、風の様に去っていったと感じます。
父の墓は、名鉄本線 中京競馬場前 という駅に近い、愛知県豊明市の高徳院というお寺にございます。こちらの住職とは生前、大変懇意にしていただいており、高徳院の鐘つき堂の傍らの枝垂れ桜には、先日、「元鹿児島大学学長 井形昭弘」の銘板をしつらえてくださいました。桶狭間古戦場にあり、かつては今川義元が本陣を構えたという名刹ですので、もしお近くにおいでの際はお立ち寄り頂ければ故人も大変喜ぶのではないかと思います。
「挨拶と女性のスカートは短いほどよい」と父も生前申しておりましたが、思いは尽きず長いご挨拶となってしまいましたが、この辺で終えさせていただきたいと思います。
生前の皆様のご厚情に改めて感謝申し上げると共に、今後とも変わらぬご指導ご鞭撻を賜る事ができますよう、お願い申し上げます。本日は誠にありがとうございました。
二〇一七年一月二一日、井形 弘
(挨拶文)本日は、多事多端の折、亡き父 井形昭弘を偲ぶ会にお集まりいただき、真にありがとうございます。
私は、幼少時より父に連れられドイツ ビュルツブルグ、群馬県 浅間、埼玉県 和光市などに育ちました。和光市は皆様ご案内の通りSMON病が集中発生し原因解明まで「戸田の奇病」と呼ばれた、その戸田市の隣町です。前回の東京オリンピックのボート会場に選ばれVIPの来訪も増えるので予防的に下痢止め剤キノホルムが大量に処方された結果薬害が起きてしまった、と聞きました。
当時の私は自分達を東京育ちのように誤解していましたので、父が突然鹿児島大学に赴任すると聞いたときは正直驚きましたし、鴨池空港に降り立って以降、日々、大きなカルチャーショックを受け続けました。父は後に、この時は小遣いを2倍にし、毎月和光市に遊びに行くことを許したので沈静化したと述壊しておりますが、実際に小遣いが増えたのか記憶にありませんし、当然ながら和光に帰ることもほとんどなく、妹ともども徐々に鹿児島の地に慣れ親しみ、桜島の雄大な景色に励まされて高校卒業までを過ごさせて頂きました。
父を鹿児島大学に推薦くださった豊倉康夫先生は鹿児島にはゆかりの方で、赴任にあたって「鹿児島では西郷さんと焼酎の悪口を言ってはいけない」とアドバイスされ、父はその言いつけをしっかり守り、元々酒好きでしたので焼酎をこよなく愛し、やがて天文館の主になっていったようです。
父は、自分も好きな道を選んだのでと、子供に対しても自分の好きな道に進むように言ってくれましたので、私も妹も医学の道には進みませんでしたが、「分からない、治らない、でも、諦めない」の三内イズムや、「自分の勉強は大したことはないが、皆さんが成長する邪魔をしないという考え方でやってきたら、多くの優秀な先生が慕ってついて来てくださり、今や日本中で大きな成果を上げてくださっている」といった話をいつもうれしそうに語っておりました。
着任当時、鹿児島大学病院は移転前で城山町にあり、第三内科は旧病院の裏の質素なプレハブ建築の中にありました。子供心にも少し心配になったものです。父はよく、お客様が見えたときは建物の外観を見られないように体で窓を塞いで案内するなどとジェスチャーをしながらおどけて話しておりましたが、それだけに桜が丘に移転した新病院の立派さが印象に残っております。
私たち子どもに取っては、幼い頃はとにかくいつも仕事に忙しくなかなか遊んでもらえない父親ではありましたが、長じて後、父が現役で生涯を終えるまでの間は、その常に前向きな考え方、旺盛なる好奇心、粘り強いコミュニケーション、ユーモアを忘れず、また、やさしいだけでなく時に芯を通す強さ等、あらゆる面で越えられない存在となっておりました。
母が他界してからは、愛知県のマンションに一人で住まっておりましたが、安売りの食材を目ざとく見つけて自炊までする立派な生活ぶりでした。私や妹が訪れたときは朝食も振舞ってくれました。近年、私や妹も、囲む会に参加させていただき、また、家族とさまざまな思い出の地に旅行する事ができたこと、お互いの出張の機会等に色々な昔話を聞くことができたことはとても幸せなことであったと思います。
八月一二日、一人で自宅の片づけをしている時に急に息苦しくなり、自力で救急車を呼びましたが、病院に着くまでの間に心肺停止に陥ったと聞きました。健やかな長寿社会の実現を目指し、最後の一瞬まで現役を貫き、周囲に全く迷惑をかけることなく、主唱していた通りの「ピンピンコロリ」を見事に実践し、風の様に去っていったと感じます。
父の墓は、名鉄本線 中京競馬場前 という駅に近い、愛知県豊明市の高徳院というお寺にございます。こちらの住職とは生前、大変懇意にしていただいており、高徳院の鐘つき堂の傍らの枝垂れ桜には、先日、「元鹿児島大学学長 井形昭弘」の銘板をしつらえてくださいました。桶狭間古戦場にあり、かつては今川義元が本陣を構えたという名刹ですので、もしお近くにおいでの際はお立ち寄り頂ければ故人も大変喜ぶのではないかと思います。
「挨拶と女性のスカートは短いほどよい」と父も生前申しておりましたが、思いは尽きず長いご挨拶となってしまいましたが、この辺で終えさせていただきたいと思います。
生前の皆様のご厚情に改めて感謝申し上げると共に、今後とも変わらぬご指導ご鞭撻を賜る事ができますよう、お願い申し上げます。本日は誠にありがとうございました。
二〇一七年一月二一日、井形 弘
