Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

昭和という時代(4)(2017/03/30) 

2005年4月号の文芸春秋で、戦後60周年企画「消えた昭和」という特集企画があり、懐かしい思いで買いこんで、大切に保存してあった。
         「日本人が失くした暮らしと心」について21人の著名人がそれぞれにその思い出を綴っている。羅列すると、蚊帳、焚き火、和式便所、ナイフ、原っぱ、紙芝居、駄菓子屋、ラジオ、縁側、箒(ほうき)とちりとり、ちゃぶ台、神棚と仏壇、蠅取り紙、押し入れ、書斎、給料袋、半ドン、社員旅行、中卒、そろばん、チップ、帽子と懐中時計、物乞い、百科事典、御用聞き、路地裏、井戸端会議などである。
         蚊帳や焚き火を経験した人も少なくなっているだろうし、「御用聞き」なる言葉も「死語」かも知れない。電話やファックス、ましてやスマートフォンなどはない時代の「御用を聞く」仕事である。
         この項は南伸坊が書いているが、「山崎さんちの、こんどの赤ちゃんは、旦那さんより、『三河屋の御用聞き』に似ているっていう噂が立つこともあったろう」には、思わずくすっと笑ってしまった。
         私にとっての昭和の思い出は、やはり「昭和歌謡」かも知れない。昔から歌謡曲を聴くのは好きだったが、歳をとるにつれて「懐メロ」は、文字通り懐かしい気持ちにさせてくれる。そして歌謡曲は、歌詞の内容に共感する部分が多く快哉したくなる。
         歌謡曲が全盛を誇った昭和30年代から50年代は、戦後の混乱期を経て高度経済成長期にあたり、日本が最も元気な時代だった。多くの歌謡曲の作家たちが時代に触発され、数々の名曲を発表した。私も文字通り「昭和歌謡」とともに生きたことになる。私自身は超オンチで最後まで歌い通したことは一度もないが、聴くと昭和の歌謡曲はほとんど知っている。この時代は、ヒット曲というものはお年寄りから若者まで国民みんなが共有し、大げさにいえば「国民的歌謡曲」というものではなかっただろうか。
         私の場合、小さいころによく覚えている歌は「別れの一本杉」と「この世の花」である。今でも時々ユーチューブで聴いている。「別れの一本杉」は高野公男作詞、船村徹作曲、歌は春日八郎である。この歌が流行ったのは田舎に住んでいた頃、昭和30年頃だから、小学校の4年生ぐらいだったかと思う。
         ラジオから聞こえてくる「泣けた泣けた こらえきれずに泣けたっけ あの娘と別れた哀しさに 山のかけすも鳴いていた 一本杉の石の地蔵さんのよ 村はずれ」という歌詞は今でもよく覚えている。私の住んでいた田舎でも、村はずれに一本杉があり思いを重ねながら聞いたものである。この歌は、若くして亡くなった高野と船村の友情物語としても有名で、船村が機会あるごとに紹介している。高野はこの時代にすでに「田舎の時代が来る」と予言していたという。高野は27歳という若さで亡くなり、その船村徹も最近亡くなったしまった。
         「この世の花」は作詞が西条八十、作曲が万城目正という大御所で、「あかく咲く花 青い花 この世に咲く花 数々 あれど 涙にぬれて 蕾のまゝに 散るは乙女の 初恋の花 」となる。亡くなった父も島倉千代子のファンだった。この歌は島倉のデビュー曲になるが、同名の映画の主題歌だったようであう。
         毎年の流行った歌の総決算が12月31日の紅白歌合戦であったわけで、こちらも国民的な番組だった。紅白も遠くになりにけり、である。