Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

昭和という時代(2)(2017/03/28) 

また白石さんが書いているように「昭和30年代、小学校の学芸会は、運動会と並び町を挙げての大イベント」だった。当時の小学校の運動会は11月3日と決まっていた(ずいぶん寒かったような気がする)。お昼にはゴザの上で、かねては食べられない巻きずしなどのご馳走を美味しく食べたもので、「米ごはん」がご馳走だった時代である。小学校の運動会が部落の運動会だったのに対して、中学の運動会は校区の運動会になり規模も大きかった。私は小学校の4年生までしか田舎にいなかったので、中学校の運動会には兄と姉の応援に出かけたものである。親子対抗リレーは運動会の花形種目だったが、我が家はいつも一位で、ちゃぶ台など当時としては豪華な景品をゲットした。一番走者の姉がビリに近い位置で兄にバトンを渡して一位に、母がまたビリになり、最後の走者の父が一位でテープを切っていた。
         鹿児島市に転居して私の卒業した城西中学校は、3年生の時には全校生徒3600人を超える日本一のマンモス中学だった。卒業アルバムを開くと、全校朝礼で各学級が一列に整列している姿は壮観でさえある。ただこれだけの生徒が、あの狭い校庭を使うとなると、さまざまな弊害も生じる。運動会は変則的で、全生徒を収容しきれないため学年毎の運動会となり、3年に一度だけ鴨池の陸上競技場を使用したこともあった。それでも100メートル競走となると、一学年1200人が10人ずつ走るにしても男女合わせて120組以上になる。次々に号砲がなりスタートしていくので、ビリの走者はトップの走者に追い抜かれることも頻繁に起きたが、気にする余裕などない。一番から5番までの旗が印字された棒を持って、係の生徒が手際よく処理していたものである。それでも運動会のプログラムの大半は徒歩競争となんとも味気ないものだった。
         山口さんは昭和直後の生まれだということだが「昭和の遠足」というタイトルである。種子島の古田小学校ということだが、「バスや車のある時代ではない。どこまでも歩いて行く。小学一年生でも徒歩だった」
         私も遠足に関して、同じような思い出を持っている。小学4年の時の遠足だったかと思うが、頴娃町の松原小学校から喜入町の近くの「千貫平」に登ったのである。高学年だけだったのかはよく憶えていないが、朝早く出発して夕方遅く家に帰りついた。舗装もされていない田舎道や山道をよく歩いたものである。リスクを恐れず引導した教師の胆力にも敬意を表したい。当時万歩計でもあれば正確な距離や歩数が判るのであるが、片道が20キロほどもある文字通りの遠足だったことになる。鹿児島市の照国神社から伊集院の徳重神社に参拝する妙円寺詣りが片道20キロだということなので、ちょうど同じような距離になるのだろうか。