一度は外に出たい(2017/03/22)
先日このランの「順応」の項で、私は鹿児島大学第三内科に入局後、都立病院に異動した時に「鹿児島から一度は外に出たいと思っていたので、願いがかなったことになる」と書いた。すると翌日のメールに、私のこのランを毎朝読んで下さっているという大学の先生から「今日の一文の中に、一度は外にというものがありました。鹿児島に来て、非常に奇異に感じる文化があります。それが、『この一度は外に』というものと、それを受けての大量の人材流出です。報道では鹿児島は人材供給県とありましたが、むしろ、人材流失県ではないかと。さらに、人材喪失県ではないかとも・・・」。
それを受けて「その実態は裸の王様ならぬ、裸の学生でしかありません。裸の学生が、人脈も力もない状態で、その多くは討死しています。鹿児島大学の臨床研修センターで他県に出た研修医にアンケートをしてみえると4分の3の研修医が鹿児島県外に出たことを後悔しているという結果もあります。最初に鹿児島県内に残り、力を付けてから出てゆけば勝負になるものを、丸腰で出てゆくばかりに、このような結果になっていると考察しています」とある。
さすがに鋭い洞察力で、私は「後者の意見には100%賛成であるが、前者には多少引っかかる部分がある」とメールしたら、早速次のような返事のメールを頂いた。
「私自身は、かわいい子には旅をさせろという言葉が好きで、自分もその恩恵に浴してきたと感じています。もちろん、鹿児島大の学生にもその利点は話をしています。外に行くことも、決して反対しているのではなく、初期研修の時点で県外に出ることにのみ反対しています。それは、彼らは、本当に丸腰だからと感じるからです」。
このメールを読んで、私もすべての点で納得がいった。確かに明治維新後の薩長藩閥政治では、俗にいう所の「縁故」なるものがはびこり、特に警察関係ではいわゆる「薩摩の芋づる」と揶揄されていたようである。
鹿児島は文字通り、日本列島の最南端に位置している。私たちは小さいころから、何かにつけ自然と「北上」をめざし、その中心となる「東京」に憧れを持っていたように思う。高校の担任の先生からは、「プロ野球チームのある大学に進学せよ」と発破をかけられていた。その反動もあり、当時の一期校に落ちて鹿児島の大学に進学しなければならなくなった時には、失望と落胆の気持ちが渦巻きやる気のない日々が続いたように思う。
もともと鹿児島は肥沃な土地にも恵まれず、薩摩藩は殖産振興には苦労したいたのではないだろうか。そのために、世界の情勢を知り危機感を感じた五代友厚は1864年6月頃に薩摩藩に対し、今後の国づくりに対する次のような上申書を提出する。「これからは海外に留学し、西洋の技術を習得してこないと世界の大勢に遅れ、国の発展に役立ちません。」
この上申書には、新式器機の購入による藩産業の近代化、近代技術・知識獲得のための海外留学生の派遣、外国人技術者の雇用、これらの経費に対する詳細な捻出方法(上海貿易等)という具体的な内容までも含まれていた。これまでも、富国強兵に努めていた薩摩藩の政策に五代の上申書が引き金となり、イギリス留学の方針が決定されることとなる。そして1865年2月13日、視察員4人と薩摩藩開成所を中心に留学生15人が選ばれ、留学渡航の藩命が下された。鎖国中の最中、洋行は禁止のため、表向きの辞令は「甑島・大島周辺の調査」となっていた。
この時の海外留学生の像が、鹿児島中央駅の表玄関に「若き薩摩の群像」として建てられている。維新前後の気概を思い出して、鹿児島の若人がきちんとした実力を蓄えたうえで、再び日本や世界で羽ばたいてほしいと願っている。
それを受けて「その実態は裸の王様ならぬ、裸の学生でしかありません。裸の学生が、人脈も力もない状態で、その多くは討死しています。鹿児島大学の臨床研修センターで他県に出た研修医にアンケートをしてみえると4分の3の研修医が鹿児島県外に出たことを後悔しているという結果もあります。最初に鹿児島県内に残り、力を付けてから出てゆけば勝負になるものを、丸腰で出てゆくばかりに、このような結果になっていると考察しています」とある。
さすがに鋭い洞察力で、私は「後者の意見には100%賛成であるが、前者には多少引っかかる部分がある」とメールしたら、早速次のような返事のメールを頂いた。
「私自身は、かわいい子には旅をさせろという言葉が好きで、自分もその恩恵に浴してきたと感じています。もちろん、鹿児島大の学生にもその利点は話をしています。外に行くことも、決して反対しているのではなく、初期研修の時点で県外に出ることにのみ反対しています。それは、彼らは、本当に丸腰だからと感じるからです」。
このメールを読んで、私もすべての点で納得がいった。確かに明治維新後の薩長藩閥政治では、俗にいう所の「縁故」なるものがはびこり、特に警察関係ではいわゆる「薩摩の芋づる」と揶揄されていたようである。
鹿児島は文字通り、日本列島の最南端に位置している。私たちは小さいころから、何かにつけ自然と「北上」をめざし、その中心となる「東京」に憧れを持っていたように思う。高校の担任の先生からは、「プロ野球チームのある大学に進学せよ」と発破をかけられていた。その反動もあり、当時の一期校に落ちて鹿児島の大学に進学しなければならなくなった時には、失望と落胆の気持ちが渦巻きやる気のない日々が続いたように思う。
もともと鹿児島は肥沃な土地にも恵まれず、薩摩藩は殖産振興には苦労したいたのではないだろうか。そのために、世界の情勢を知り危機感を感じた五代友厚は1864年6月頃に薩摩藩に対し、今後の国づくりに対する次のような上申書を提出する。「これからは海外に留学し、西洋の技術を習得してこないと世界の大勢に遅れ、国の発展に役立ちません。」
この上申書には、新式器機の購入による藩産業の近代化、近代技術・知識獲得のための海外留学生の派遣、外国人技術者の雇用、これらの経費に対する詳細な捻出方法(上海貿易等)という具体的な内容までも含まれていた。これまでも、富国強兵に努めていた薩摩藩の政策に五代の上申書が引き金となり、イギリス留学の方針が決定されることとなる。そして1865年2月13日、視察員4人と薩摩藩開成所を中心に留学生15人が選ばれ、留学渡航の藩命が下された。鎖国中の最中、洋行は禁止のため、表向きの辞令は「甑島・大島周辺の調査」となっていた。
この時の海外留学生の像が、鹿児島中央駅の表玄関に「若き薩摩の群像」として建てられている。維新前後の気概を思い出して、鹿児島の若人がきちんとした実力を蓄えたうえで、再び日本や世界で羽ばたいてほしいと願っている。
