順応(後)(2017/03/09)
第三内科に入局後、2年目に東京への異動は、恩師の井形先生の配慮によるものだった。前年に父親がくも膜下出血で急逝したので、気分転換にもよかったかもしれない。
都立府中病院(現在の多摩医療センター)の副院長兼神経内科部長の(故)宇尾野先生が東大時代に井形先生の上司ということで、当時第三内科の派遣先の一つとして私は新名先生の後を継ぐ形で異動になった。鹿児島から一度は外に出たいと思っていたので、願いがかなったことになる。卒業3年目という新米医師だったが、常勤で就職できたことも宇尾野先生などの配慮があったからかもしれない。東大や順天堂大学から定期的に派遣されてくる医師は私より経験者が多かったが、非常勤の扱いになっていた。
当時、府中病院の神経内科は重症筋無力症の研究や治療の基幹病院で、全国各地から志に燃えた神経内科医が集まっていた。名古屋大学から来られていた広瀬先生や東大から来られていた別府先生、新潟大学の山田先生などの上司にも恵まれ、また電子顕微鏡や組織化学の直接の指導者だった佐橋先生、遊び友達の馬場先生などと楽しい2年間を過ごすことができた。論文の校正などもしていただき、書き方のコツなども教わることができた。また佐橋、馬場先生とは3人で、渋谷にあるドイツ語学校にも通ったが、全然ものにはならなかった。また時間的には余裕もあったので、近くにある東京都神経科学総合研究所で堀先生から生化学的な指導も受けることができた。
3回目の環境の変化は、アメリカへの留学である。納先生の後任として推薦されたわけであるが、井形先生から打診された時にはちょっと渋ってしまった。性格的にもすぐにはなじめない性質であり、物怖じするし、英語もさほどうまくなかったので、正直なところ留学は気が進まなかった。井形先生は温厚な性格で怒られた経験はほとんどなかったのだが、この時には「チャンスというものはそんなにないものだ」と、強い口調で言われたように記憶している。
結果的にはここでも楽しい3年間を過ごさせてもらった。そしてこの留学の経験がなかったら、私の人生のちょっと「華々しい」部分はなかったかと思う。当時、4年に一度開催されていた世界神経筋学会(フランスのマルセーユ)では高の研究と称賛された。もっともボスのエンゲル先生はこの分野では世界の第一人者だったので、そこでの研究は自ずから最高のものと言えたのかも知れない。帰国に際してはメイヨー財団から賞金付のResearch awardを頂き、帰国してから多くの研究班に所属できたり、また共同研究の申し込みが多かったのは、アメリカでの研究成果に依るところが大きかったと考えている。
アメリカで暮らした3年間、大きく落ち込むことはなかったのは、留学したメイヨークリニックがミネソタ州のロチェスターという小さな田舎町にあったこと、日常生活や研究面での新天地への導入を前任者の納先生がしてくれたこと、エンゲル先生の考え方や方針が自分によくあっていたこと、家族で行ったので食事などが大きく変化させずに済んだこと、住んでいた場所が留学生用の住宅で多くの日本人も住んでいたこと、仕事(研究)が上手くいったのでさほどプレッシャーを受けずに済んだことなどが挙げられるかと思う。 同じ留学仲間でも、適応できずに帰国した人もいた。当初は2年間の予定だったが、3年間を終えた時にエンゲル先生から延長も打診されたが、さすがに「もう帰りたい」と思った。家内の方かアメリカでの生活がよく合っていたようで、「もう少しここで暮らしてもいい」と言っていた。
都立府中病院(現在の多摩医療センター)の副院長兼神経内科部長の(故)宇尾野先生が東大時代に井形先生の上司ということで、当時第三内科の派遣先の一つとして私は新名先生の後を継ぐ形で異動になった。鹿児島から一度は外に出たいと思っていたので、願いがかなったことになる。卒業3年目という新米医師だったが、常勤で就職できたことも宇尾野先生などの配慮があったからかもしれない。東大や順天堂大学から定期的に派遣されてくる医師は私より経験者が多かったが、非常勤の扱いになっていた。
当時、府中病院の神経内科は重症筋無力症の研究や治療の基幹病院で、全国各地から志に燃えた神経内科医が集まっていた。名古屋大学から来られていた広瀬先生や東大から来られていた別府先生、新潟大学の山田先生などの上司にも恵まれ、また電子顕微鏡や組織化学の直接の指導者だった佐橋先生、遊び友達の馬場先生などと楽しい2年間を過ごすことができた。論文の校正などもしていただき、書き方のコツなども教わることができた。また佐橋、馬場先生とは3人で、渋谷にあるドイツ語学校にも通ったが、全然ものにはならなかった。また時間的には余裕もあったので、近くにある東京都神経科学総合研究所で堀先生から生化学的な指導も受けることができた。
3回目の環境の変化は、アメリカへの留学である。納先生の後任として推薦されたわけであるが、井形先生から打診された時にはちょっと渋ってしまった。性格的にもすぐにはなじめない性質であり、物怖じするし、英語もさほどうまくなかったので、正直なところ留学は気が進まなかった。井形先生は温厚な性格で怒られた経験はほとんどなかったのだが、この時には「チャンスというものはそんなにないものだ」と、強い口調で言われたように記憶している。
結果的にはここでも楽しい3年間を過ごさせてもらった。そしてこの留学の経験がなかったら、私の人生のちょっと「華々しい」部分はなかったかと思う。当時、4年に一度開催されていた世界神経筋学会(フランスのマルセーユ)では高の研究と称賛された。もっともボスのエンゲル先生はこの分野では世界の第一人者だったので、そこでの研究は自ずから最高のものと言えたのかも知れない。帰国に際してはメイヨー財団から賞金付のResearch awardを頂き、帰国してから多くの研究班に所属できたり、また共同研究の申し込みが多かったのは、アメリカでの研究成果に依るところが大きかったと考えている。
アメリカで暮らした3年間、大きく落ち込むことはなかったのは、留学したメイヨークリニックがミネソタ州のロチェスターという小さな田舎町にあったこと、日常生活や研究面での新天地への導入を前任者の納先生がしてくれたこと、エンゲル先生の考え方や方針が自分によくあっていたこと、家族で行ったので食事などが大きく変化させずに済んだこと、住んでいた場所が留学生用の住宅で多くの日本人も住んでいたこと、仕事(研究)が上手くいったのでさほどプレッシャーを受けずに済んだことなどが挙げられるかと思う。 同じ留学仲間でも、適応できずに帰国した人もいた。当初は2年間の予定だったが、3年間を終えた時にエンゲル先生から延長も打診されたが、さすがに「もう帰りたい」と思った。家内の方かアメリカでの生活がよく合っていたようで、「もう少しここで暮らしてもいい」と言っていた。
