Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

Yさんの思い出(2017/04/12) 

4月11日の朝、病院に着いてメールを開くと大窪先生(都城藤元病院)からのメールである。おはようございます。
       早速ですが、訃報のご連絡です。これまで長い間、在宅療養をされていたYさんが、先程在宅で亡くなられました。82歳でした。平成25年1月にご主人が亡くなられてから、長男さんが介護されていました。最近、心不全症状が徐々に悪化していましたが、今朝もいつも通り起床されて、内服して息子さんとも会話されたそうです。Sat99%でした。トイレ中に意識レベルが低下して、そのまま眠ったような形で呼吸停止がきています。ご家族も特に慌てることなく、訪問看護ステーションに連絡され、私が先程訪問して死亡確認してきました。大好きな桜がちょうど咲いた時期を迎えられて、ご家族も納得されておられました。ご家族から、長い間お世話になりましたと、福永先生にお伝えくださいとのことでした。都城の遺伝性ALSの歴史が一つ閉じたような感じです。
       Yさんに関しては、さまざまな思い出が蘇る。平成6年頃から数年間、都城から南九州病院を一か月に一回ほど外来受診されていたが、その後外来受診が困難になり在宅医療に移られた。その頃、よく自分で描かれた水彩画を持ってきてみせてくれていた。思い出に二枚頂き、一枚は南九州病院の外来に、もう一枚は鹿児島県難病相談・支援センターの相談室に掲げてある。
       当時、高校の校長を退職され、温厚で病気への深い理解のあるご主人が、いつも車イスを押して受診されていた。症状が進行して通院が難しくなったこともあって、在宅療養に移られ、ご主人の介護と福祉サービスを受けながら療養されていた。平成19年頃には「自分史~72歳までの人生あれこれ~」という小冊子を送ってくれたことがあった。戦後の騒乱の時代のことや、小さい頃から高校までのお転婆振り、3人の子育ての苦労、自らもママさんバレー選手として活躍したこと、結婚のこと、映画や旅行のこと、病気のことなどが克明に淡々とつづられている。
       ところで都城のYさん宅には、2回ほどお邪魔したことがある。
       一回目は平成20年に都城病院の新病棟完成記念式典の時で、ちょっと立ち寄ってみた(この時の様子は、当時の院内ランに記してあった)。
       Yさんの自宅は、駅からタクシーで10分くらいの閑静な住宅街にあった。ご主人が門の前で待ってくれており、広大な庭を横切って家の中にはいる。奥まった一室のベッドにYさんは横になっていたが、「今日は久し振りに、自分で化粧したんですよ」というだけあって、顔色もよくとても70歳を過ぎているようには思えない。話す言葉も元気そのもので、「お父さんが介護できなくなったら、先生の病院に入院させてもらえないかしら」と、大きな宿題までもらってしまう。「私は『わがまま(私が語感から勝手に集約した言葉)』だから、集団生活は苦手で・・・」とも話される。「80歳までは生きたいけど、そうなるとお父さんは88歳になるわけで、介護できるだろうか」と心配されている。その後、二階にも車いすごと昇れるように工夫した昇降機、お風呂のつり上げ式の入浴装置なども見せてもらう。二階には自分の絵が所狭しと、画廊のように掲げられている。20分ほどおじゃました後、ご主人の運転で、都城病院まで送ってもらった。
       もう一回は、当時上別府さん(前鹿児島医療センター看護部長)が宮崎病院の看護部長の時に、宮崎病院で講演させてもらったことがあり、翌朝、東串良の自宅に帰るときに都城まで同乗させてもらった時である。この時にはご主人は既に亡くなられており、息子さんが介護されていたように思う。
       自らも言われているように「ワガママ」な性格(自己中心的ではなかった)だったが、冷静に自分を観察できる女性だった。今夜が通夜だそうである。ご冥福をお祈りしたい。