Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

壱岐旅行(6)(2017/05/17) 

小倉駅から普通列車で下関駅に、隣接のシーモール下関2階ピアモールで、「梶山滋似顔絵作品展(天上天下唯画毒尊)」が開催されていた。50点近くの似顔絵画がボードに貼り付けられていた。梶山さんは11歳で筋ジストロフィーと診断され、養護学校の高等部の時に描いた教員の似顔絵が周囲の笑いを誘ったのがきっかけで、制作を始めたという。今回も有名人の似顔絵が並べられていたが、その特徴をよく読みとって、思わずクスッと笑いそうな作品ばかりである。過去に週刊朝日の似顔絵塾の最優秀作品賞を二度も受賞している。鼻マスクなどの人工呼吸器装着等で相談している多田羅先生からの生花も飾られていた。会場から梶山さんに電話をすると、「体調を壊して、残念ながら展示会場には行けません」というので自宅を訪ねることにした。新下関駅まで普通列車で、そこから田倉の自宅までタクシーを使った。
         家に入ると、小学2年生になるという息子さんと、介護者、そして梶山さんが出迎えてくれた。奥さんは仕事(看護師)に出かけているという。熱があったが、幸いにも少しずつ良くなっているようだ。鼻マスク型の人工呼吸器を装着しているが、話すことには不自由はない。  
         私と梶山さんとの出会いは、私が厚生省の筋ジストロフィー研究班の班長をしていたとき、理事の一人だった松江病院の河原先生を病院に訪ねた時が最初の出会いである。その時に恋人のまゆみさんも神奈川から来られていて、一緒に紹介された。
         その後、彼のグラフィックの才能に驚き、川村治子さんが医学書院から医療安全のテキストブックを出版した時には、挿絵を担当してもらうように勧めたこともある。彼は『週刊朝日』誌上で「山藤章二の似顔絵塾」に何度も当選、プロのイラストレーターとして活躍するようになった。ただ手の筋力が落ちてきているので、現在は顎でトラックボールを操りながら入力しているという。
         梶山さんは先日亡くなった美由紀の仕事上の友人でもあるが、「あの時代の筋ジス病棟は、古き良き病棟という感じでしたね」と話しながら、「笑ったり泣いたり怒ったりと、人間臭さがありました」とも語っていた。まったく同感である。彼は下関市の生まれだが山口県には筋ジス病棟がなかったので広島県の原病院に入院、その後松江病院に移ったのだという。十数年前に松江病院を退院し、まゆみさんと結婚、以降下関市に住んでいる。私が3年ほど前に下関市で講演した時にも聴きに来てくれていた。30分程四方山話をしたのち、来た時と同じルートで、博多に帰った。
         しばらくした後、次のような手紙を頂いた。
         「・・・言葉の表現として相応しいか怪しいですが、福永先生をはじめ河原先生、多田羅先生、埜中先生方が第一線で筋ジス医療界を引っ張っておられた時代に、自分が筋ジス病棟で療養していたことは、いろんな意味でラッキーだったと思います。自分の場合は河原先生の手荒な教育を通していろいろな先生方との出会いと交流の機会を頂き、それが今の自分の財産になっていることは間違いありません。ただ残念なことは、神経難病患者の命の限界で、折角有名な先生に引っ張っていただいても、患者はポロポロと欠けていくことが残念です。幸い自分はまだ、命ゆるされている身なので、もう少し生きられることを謳歌し、世に対し、地域で生きる筋ジス患者の何かしらの発信ができればと思っています。・・」
         さて6日の午後、天神で家内と娘、孫たちに合流してデパートめぐり、バスで博多駅に移動して新山口、鹿児島中央駅へとそれぞれの新幹線に乗った。
         この3日間、3家族となった家族が、お互いに直に顔を合わせる機会となった。「3:11」のあの大震災以来、「絆」という言葉がよく使われる。同じ家族であっても、時には顔を合わせる会を意識してつくらなければ、次第に疎遠になってしまうことになるだろう。爺ちゃん婆ちゃんとしては散財させられ腰が痛いなど疲れは残るが、楽しい3日間だったと考える。最後に、壱岐案内情報を届けてくれた米城さん、ありがとう。