壱岐旅行(3)(2017/5/12)
翌朝5日もいつものように早く起きて、朝食前に界隈を一時間ほど散策した。田んぼの畦道には黄色い花を付けた植物をたくさん見ることができたが、ウマノアシガタというそうである。鶯のホーホケキョという正調の鳴き声(このようなきれいな発音、あまり聞いたことがない)とカエルの声が混じり合って、いかにものどかな田園風景である。筒城浜から七湊漁港に出ると、既に釣りをしている人がいる。出会う人が大きな声で挨拶してくれるのは、まだ田舎のいい面が残っているように感じられる。木々の生い茂る山の中を歩いて行くと、行き止まりになっており、大きな門構えの大邸宅で、中の様子をうかがうことはできない。別荘にでも使っているのだろうか。他にも立派な家が多数あり、島の豊かな暮らしぶりが想像できる。
朝食を食べた後、みんなで筒城浜に散歩に行った。夏は海水浴客で大いに賑わうとのことであるが、この季節は誰もいない。海に通じる水路にはカニや魚が群れを成して泳いでいる。さすがに吉岡君は専門家だけあって、この小さな魚はフグの一種だと説明する。砂浜に入ったが細かい黄色い柔らかい砂である。芽生ちゃんは用心深いのか臆病なのか、入ろうとしない。海水はまだ冷たい。
9時過ぎにペンションを後にして、米城さんに「是非に」と勧められていた松永安左エ門記念館を訪れた。受付兼案内の老人が一人だけおられて、熱心に説明してくれた。
松永は壱岐市石田町出身で「日本の電気王」、「電力の鬼」とも称されて、経済人、文化人、茶人、そしていい意味での変人としても有名であるそうだ。美男子で女性にもモテたらしい。遺書に「死後一切の葬儀・法要はうずくのでるほど嫌いに是れあり。・・・財産はセガレおよび遺族には一切くれてはいかぬ・・・」と書き遺したという。
1875年(明治8年)に生まれて1971年(昭和46年)、96歳で生涯を閉じている。広く事業を営む商家の生まれで、福澤諭吉の『学問のすすめ』に感奮興起し、福澤門に進むことを決めて、1889年(明治22年)に東京へ出て慶應義塾大学に入学している。松永は、慶応義塾で福澤諭吉の教えを受け、1910年(明治43)の九州電気設立を契機に電気事業に着手、全国的に活躍の場を広げる。戦時下には国家管理下に反対し隠居を決意するが、戦後、電気事業の民営化や料金値上げなどの電気事業の再編の中心人物として再び活躍する。また隠居中には、耳庵(じあん)と号し茶人としても近代の三茶人のひとりと称されるに至り、茶器等のコレクターとしても広く知られるようになる。建物入口には、松永が1909年(明治42)に設立した福博電気軌道(後の西日本鉄道)の懐かしい電車が置かれている。
そのあと、小高い山の上に建てられている「一支国博物館」に行くことにした。途中に品川病院の看板が見えたが、前回(十数年ほど前かなあ)講演で訪れた時の医師会長で、夜は楽しく飲んだ記憶がある。「数学が得意だったので京都府立医大に行きました」と話されていたことを思い出した。
朝食を食べた後、みんなで筒城浜に散歩に行った。夏は海水浴客で大いに賑わうとのことであるが、この季節は誰もいない。海に通じる水路にはカニや魚が群れを成して泳いでいる。さすがに吉岡君は専門家だけあって、この小さな魚はフグの一種だと説明する。砂浜に入ったが細かい黄色い柔らかい砂である。芽生ちゃんは用心深いのか臆病なのか、入ろうとしない。海水はまだ冷たい。
9時過ぎにペンションを後にして、米城さんに「是非に」と勧められていた松永安左エ門記念館を訪れた。受付兼案内の老人が一人だけおられて、熱心に説明してくれた。
松永は壱岐市石田町出身で「日本の電気王」、「電力の鬼」とも称されて、経済人、文化人、茶人、そしていい意味での変人としても有名であるそうだ。美男子で女性にもモテたらしい。遺書に「死後一切の葬儀・法要はうずくのでるほど嫌いに是れあり。・・・財産はセガレおよび遺族には一切くれてはいかぬ・・・」と書き遺したという。
1875年(明治8年)に生まれて1971年(昭和46年)、96歳で生涯を閉じている。広く事業を営む商家の生まれで、福澤諭吉の『学問のすすめ』に感奮興起し、福澤門に進むことを決めて、1889年(明治22年)に東京へ出て慶應義塾大学に入学している。松永は、慶応義塾で福澤諭吉の教えを受け、1910年(明治43)の九州電気設立を契機に電気事業に着手、全国的に活躍の場を広げる。戦時下には国家管理下に反対し隠居を決意するが、戦後、電気事業の民営化や料金値上げなどの電気事業の再編の中心人物として再び活躍する。また隠居中には、耳庵(じあん)と号し茶人としても近代の三茶人のひとりと称されるに至り、茶器等のコレクターとしても広く知られるようになる。建物入口には、松永が1909年(明治42)に設立した福博電気軌道(後の西日本鉄道)の懐かしい電車が置かれている。
そのあと、小高い山の上に建てられている「一支国博物館」に行くことにした。途中に品川病院の看板が見えたが、前回(十数年ほど前かなあ)講演で訪れた時の医師会長で、夜は楽しく飲んだ記憶がある。「数学が得意だったので京都府立医大に行きました」と話されていたことを思い出した。
