出水での医療相談会(2017/06/22)
平成29年度医療相談会が鹿児島県北薩地域振興局保健福祉環境部の主催で6月12日に出水中央公民館で開催されることになり、私は講話を頼まれた。
鹿児島中央駅で簡単な昼食を食べて、13時04発の新幹線に乗り、28分には出水駅に着いた。24分しかかからないのである。駅には保健所から迎えの車が来てくれていた。ところが運転手さんが車のエンジンをかけようとするが、思うようにかからない。「カーリモコンの電池切れかも知れませんね」と言いながら、何度も繰り返すうちにどうにか始動した。帰りも同じ運転手さんだったが、「やはり電池切れで、ディーラーで500円で電池の交換をしてもらいました。山の中ででも切れたら大変ですので、2年に一回くらいは交換しておいた方が無難ですよ」と話されていた。確かに言われる通りで、電池が切れると今の車は動かないのである。
14時から「ALSと生き方」と題して、1時間ほど講話した。そのあと、ロの字型の配置で、交流会となった。今回の出席者は患者さん本人が3人、患者さんの奥さんの4家族であった。参加者は少なかったが病気をよく受容している人たちで、私の意図した病気と共生しながらの「生き方」について、高いレベルで意見交換ができたように思えた。
Jさんは74歳、いつも明るい奥さんと出席されていたが、私は南九病院にいたころに外来で診ていたこともありよく知っていた。5年ほど前に発病、筋力低下が進み、現在は車椅子である。唱歌を歌うのを生きがいにしておられて、一年ほど前の南日本新聞で、特養などでボランティアとして歌っている様子が報じられていたことを憶えている。ところがだんだん声が出にくくなり、最近はささやく程度で、耳を近くに持っていかないと聞き取れなくなっている。
講話の前の雑談で自らの経歴を話されたが、1974年に操業を開始した日本特殊陶業の宮之城工場に入社、定年まで勤められたという。この会社は「スパークプラグの生産量では日本のシェアの7割ほど占めています」と誇らしげに語っておられた。
「妻にも迷惑をかけるので気管切開して呼吸器を付けることはしたくないと思っていましたが、今は生きる方向で考えています。食事は口からしたいので胃瘻ではなくて、喉頭気管分離術を考えています」ということだった。自分の置かれた立場をきちんと理解しており、周りへの配慮もできる人なので、「いろいろな困難を乗り越えていけると思います。ぜひともALS患者の生き方のロールモデルになってください」とエールを送ることだった。
Nさんは70歳で、お人好しそうなご主人と一緒に出席されていた。4年ほど前に発病、ラジカットの治療を一年ほど続けたが効果がなく、静脈確保にも難渋してこの治療はやめた。「夫や娘たちと旅行に行くのが楽しみです」としっかりした声で話されていた。この女性の場合、球麻痺症状は軽いので、しばらくは穏やかな生活が続けられるのではないだろうか。昨年のこの交流会でJさんとの交流ができたのを喜んでおられた。
Mさんは56歳で、奥さんと参加されていたが、きちんとした物言いのできる人である。
建設業をされていたが7,8年前に症状出現、最近肺活量が低下して声を出すことが困難になってきている。視線入力装置を福祉で申請しているが、県の方の認可がまだ進まないということだった。
Kさんは64歳、奥さんのみが出席されていた。平成11年頃の発症で、私の弟の紹介で南九州病院時代に診たことがあるということだった。緩徐な進行で、まだ伝い歩きなどはできるが発生が困難となっているので、意思伝達装置の視線入力装置を希望されていた。
17時前に相談会は終わり、弟の家まで車で送ってもらい、夜は美味しい寿司をご馳走になった。
鹿児島中央駅で簡単な昼食を食べて、13時04発の新幹線に乗り、28分には出水駅に着いた。24分しかかからないのである。駅には保健所から迎えの車が来てくれていた。ところが運転手さんが車のエンジンをかけようとするが、思うようにかからない。「カーリモコンの電池切れかも知れませんね」と言いながら、何度も繰り返すうちにどうにか始動した。帰りも同じ運転手さんだったが、「やはり電池切れで、ディーラーで500円で電池の交換をしてもらいました。山の中ででも切れたら大変ですので、2年に一回くらいは交換しておいた方が無難ですよ」と話されていた。確かに言われる通りで、電池が切れると今の車は動かないのである。
14時から「ALSと生き方」と題して、1時間ほど講話した。そのあと、ロの字型の配置で、交流会となった。今回の出席者は患者さん本人が3人、患者さんの奥さんの4家族であった。参加者は少なかったが病気をよく受容している人たちで、私の意図した病気と共生しながらの「生き方」について、高いレベルで意見交換ができたように思えた。
Jさんは74歳、いつも明るい奥さんと出席されていたが、私は南九病院にいたころに外来で診ていたこともありよく知っていた。5年ほど前に発病、筋力低下が進み、現在は車椅子である。唱歌を歌うのを生きがいにしておられて、一年ほど前の南日本新聞で、特養などでボランティアとして歌っている様子が報じられていたことを憶えている。ところがだんだん声が出にくくなり、最近はささやく程度で、耳を近くに持っていかないと聞き取れなくなっている。
講話の前の雑談で自らの経歴を話されたが、1974年に操業を開始した日本特殊陶業の宮之城工場に入社、定年まで勤められたという。この会社は「スパークプラグの生産量では日本のシェアの7割ほど占めています」と誇らしげに語っておられた。
「妻にも迷惑をかけるので気管切開して呼吸器を付けることはしたくないと思っていましたが、今は生きる方向で考えています。食事は口からしたいので胃瘻ではなくて、喉頭気管分離術を考えています」ということだった。自分の置かれた立場をきちんと理解しており、周りへの配慮もできる人なので、「いろいろな困難を乗り越えていけると思います。ぜひともALS患者の生き方のロールモデルになってください」とエールを送ることだった。
Nさんは70歳で、お人好しそうなご主人と一緒に出席されていた。4年ほど前に発病、ラジカットの治療を一年ほど続けたが効果がなく、静脈確保にも難渋してこの治療はやめた。「夫や娘たちと旅行に行くのが楽しみです」としっかりした声で話されていた。この女性の場合、球麻痺症状は軽いので、しばらくは穏やかな生活が続けられるのではないだろうか。昨年のこの交流会でJさんとの交流ができたのを喜んでおられた。
Mさんは56歳で、奥さんと参加されていたが、きちんとした物言いのできる人である。
建設業をされていたが7,8年前に症状出現、最近肺活量が低下して声を出すことが困難になってきている。視線入力装置を福祉で申請しているが、県の方の認可がまだ進まないということだった。
Kさんは64歳、奥さんのみが出席されていた。平成11年頃の発症で、私の弟の紹介で南九州病院時代に診たことがあるということだった。緩徐な進行で、まだ伝い歩きなどはできるが発生が困難となっているので、意思伝達装置の視線入力装置を希望されていた。
17時前に相談会は終わり、弟の家まで車で送ってもらい、夜は美味しい寿司をご馳走になった。
