みゆき(3)(2017/06/05)
2014年4月10日の夜、岩崎さん(美由紀と同じ病気で、南九州病院の筋ジス病棟で長年療養し、姉妹が2000年に退院した後、2004年に自らも退院、そして現在はNPO事業所の運営に関わっている)から、「美由紀の状態が悪い」という電話連絡を受けた。翌11日、午後の昼食時間を利用して病院から高麗町のビルに向かった。部屋に入ると、ベッドの周りをお母さんやおばさん、ヘルパーの人たちが心配そうに取り囲んでいる。
お母さんの話。9日に叔母さんの葬儀が内之浦であったので、美由紀は無理して葬儀に参列し、火葬場にまで足を運んでくれたという。その無理がたたったのか、10日に状態が急に悪くなり、かねて治療を受けていた大学病院へと搬送された。「もう、何もできることはありません」と言われたのでMRIの検査も断って、「家で死にたい」というかねてからの希望を叶えてあげようと自宅に連れて帰ったということです。
その後、時々電話で岩崎さんに美由紀の様子を聞いてみていたが、「頑張っています。先日は『ありがとうございました』というような言葉も聞かれたし、手を握り返す力も強くてびっくりしました」(17日)。
21日の夕方、美由紀の家に寄ってみた。昨日は痙攣が頻繁に起きたということだが、顔色は悪いものの穏やかな表情である。寝ているベッドを挟んで、お父さんとゆっくりと話すことができた。現在87歳、61歳の時に右麻痺を発病されたが、現在でも頭の方はしっかりされている。在りし日の筋ジス親の会や筋ジス協会のことに話題は移ったが、当時のメンバーはほとんど亡くなられている。当時、親御さんたちが我が子のために本当に熱心に活動されていた。
ところで、美由紀とは40年を超える実に長い付き合いになる。
最初の出会いは1976年に私が一年間、南九州病院に出張した年である。この頃はまだ二十歳前だったかと思う。1884年に二回目の出張の後は、主治医ではなかったので、何かにつけ遠くて近い関係にあった。お父さんが筋ジス協会の活動に熱心だったということもあって、お父さんとも親しくお付き合いをしてきた。妹の美智恵も同じ病気で歩くことはできずに車いすの生活で、身体的には大きな障がいを持っていたが、二人とも知的なレベルはとても高く活発で明るい姉妹だった。
南九州病院に長年入院した後、当時、加治木養護学校の先生だった川涯先生が中心となって組織していた「Viewの会」の活動を行ううちに、「一般社会で生活したい」という思いが強くなったようである。Viewの会では毎年秋になると全国から有名な人を招いて講演会を企画したが、美由紀がプロデューサーで美智恵が司会者というような役回りだった。
たまたま坂下さんという篤志家の援助もあり、南九州病院の正門前に住居と調剤薬局の「ブドウの木薬局」を開店させ、その運営を担っていた。しかし薬局の運営は経済的にうまくいかずに、一年間で閉鎖せざるを得なくなった。
彼女らの凄さは、その後の活動である。自立生活センター「てくてく」と介護派遣サービス「ぶどうの木」いう事業所を立ち上げた。設立理念として「どんなに重度な障がいを持っていても地域の中であたり前に暮らしたい、そんな願いを夢として語るだけでなく実現する」、そして今後目指すものとして「一人一人の力を信じて、誰もが主体的に自分らしく生きる社会を目指してさまざまな活動をしていきたい」と宣言し、相談業務、ピアカウンセリング、自立生活プログラム、介助者派遣サービス、移送サービス、自立生活体験室など幅広い活動を行ってきた。とくに美由紀は指導的な役割で、東京から沖縄まで(ネパールに行ったこともあるという)全国を飛び回っていた。
お母さんの話。9日に叔母さんの葬儀が内之浦であったので、美由紀は無理して葬儀に参列し、火葬場にまで足を運んでくれたという。その無理がたたったのか、10日に状態が急に悪くなり、かねて治療を受けていた大学病院へと搬送された。「もう、何もできることはありません」と言われたのでMRIの検査も断って、「家で死にたい」というかねてからの希望を叶えてあげようと自宅に連れて帰ったということです。
その後、時々電話で岩崎さんに美由紀の様子を聞いてみていたが、「頑張っています。先日は『ありがとうございました』というような言葉も聞かれたし、手を握り返す力も強くてびっくりしました」(17日)。
21日の夕方、美由紀の家に寄ってみた。昨日は痙攣が頻繁に起きたということだが、顔色は悪いものの穏やかな表情である。寝ているベッドを挟んで、お父さんとゆっくりと話すことができた。現在87歳、61歳の時に右麻痺を発病されたが、現在でも頭の方はしっかりされている。在りし日の筋ジス親の会や筋ジス協会のことに話題は移ったが、当時のメンバーはほとんど亡くなられている。当時、親御さんたちが我が子のために本当に熱心に活動されていた。
ところで、美由紀とは40年を超える実に長い付き合いになる。
最初の出会いは1976年に私が一年間、南九州病院に出張した年である。この頃はまだ二十歳前だったかと思う。1884年に二回目の出張の後は、主治医ではなかったので、何かにつけ遠くて近い関係にあった。お父さんが筋ジス協会の活動に熱心だったということもあって、お父さんとも親しくお付き合いをしてきた。妹の美智恵も同じ病気で歩くことはできずに車いすの生活で、身体的には大きな障がいを持っていたが、二人とも知的なレベルはとても高く活発で明るい姉妹だった。
南九州病院に長年入院した後、当時、加治木養護学校の先生だった川涯先生が中心となって組織していた「Viewの会」の活動を行ううちに、「一般社会で生活したい」という思いが強くなったようである。Viewの会では毎年秋になると全国から有名な人を招いて講演会を企画したが、美由紀がプロデューサーで美智恵が司会者というような役回りだった。
たまたま坂下さんという篤志家の援助もあり、南九州病院の正門前に住居と調剤薬局の「ブドウの木薬局」を開店させ、その運営を担っていた。しかし薬局の運営は経済的にうまくいかずに、一年間で閉鎖せざるを得なくなった。
彼女らの凄さは、その後の活動である。自立生活センター「てくてく」と介護派遣サービス「ぶどうの木」いう事業所を立ち上げた。設立理念として「どんなに重度な障がいを持っていても地域の中であたり前に暮らしたい、そんな願いを夢として語るだけでなく実現する」、そして今後目指すものとして「一人一人の力を信じて、誰もが主体的に自分らしく生きる社会を目指してさまざまな活動をしていきたい」と宣言し、相談業務、ピアカウンセリング、自立生活プログラム、介助者派遣サービス、移送サービス、自立生活体験室など幅広い活動を行ってきた。とくに美由紀は指導的な役割で、東京から沖縄まで(ネパールに行ったこともあるという)全国を飛び回っていた。
