みゆき(1)障がいを持つ人のロールモデル(2017/06/01)
2017年4月26日未明、美由紀(かって一緒に過ごした筋ジス病棟での呼び方そのままに)があの世へと旅立ってしまった。時が過ぎるのは実に早いもので、もう一月以上が経ってしまった。信じがたく悲しくてやりきれない。筋ジス病棟を退院してからは特に親しく付き合っていたわけではなかったが、たまたま出会うといつも「冗談ばかり」言い合ってふざけていた。私にとっては長年の友であり、医師と患者という関係を超えて何かと「気になる」存在だった。
2013年3月に私も南九州病院を退官後、現在の急性期医療を専門とする南風病院に移ったので、ともすれば忘れがちになる「筋ジス医療」の世界に繋ぎ止めてくれたともいえる。生まれた時から難病の一つである脊髄性筋萎縮症という病気と闘いながら、持ち前のおおらかさで明るく懸命に生き抜いた生き方は、障がいを抱えた人のロールモデルだったと評価している。
私も筋ジス病棟を去って4年以上が経つ。在りし日を振り返るとき、あの時代は考えようによっては「ユートピア的世界ではなかったのか」とひそかに誇りに思っている。先日、下関の梶山さん(美由紀の仕事上の友人でもあったという)を見舞いに行った時、「古き良き病棟という感じでしたね」と似たような表現を使っていた。「笑ったり泣いたり怒ったりと、人間臭さがありました」とも語っていた。彼も当時、松江病院の筋ジス病棟に入院していた。
どんなに辛かったことでも、過ぎ去ってしまえば甘い思い出に変わってしまう。それでも「よかったなあ、あの頃は」と、つい思ってしまう。入院していた患者さんの病状も軽く、スタッフも若く元気があり、「この病気とそして病気の人をどうにかしたい」という強い使命感に燃えた若いスタッフが集っていた。そしてまた、病院経営を特段気にすることもないいい時代だった。
私が退官するときに、山田君(脊髄性筋萎縮症)が南日本新聞の「ひろば」欄に、「福永先生と過ごした輝ける年月」というタイトルで投稿してくれている。
・・・先生と過ごしてきた年月には、今は衰えてしまった身体でもそれぞれにはつらつとしていた瞬間があり、過酷な症状になってもベッド上から自分を発信する姿もある。またその中には、夢半ばで天に旅立った僚友たちの顔もあった・・・
どうしようもないことだが、歳月とともに「筋ジス病棟の仲間が一人ずつ旅立った」という報せを聞くしかないもどかしさを感じている。
16歳の若さで亡くなった冨満君(筋ジストロフィー)は、亡くなる数日前まで、夢だったアメリカへの留学のためだと英検の勉強を続けていた。「自分のしたいことはしたいし、そのために精一杯の努力をする」と言いつつも、遂に夢は叶えられなかった。ただ私たちの胸の中に代えがたい大きな贈り物を残してくれた。「健康とは体が自由に動くことだけではないのかもしれない」と。
35歳で、あたかも旅に出かけるように逝った轟木君(筋ジストロフィー)は、パソコンを自在に操り、「寝たきりの生活でありながら、やる気さえあれば可能性は無限大に広がっていきます。近い将来、私も死を迎えます。死を前にしていかに生きるか、その答えは過去にこだわらず、常に前向きに一生懸命に生きていくことではないでしょうか。今日が終わらなければ明日はこない。今日を楽しむことが全てです」と、その著書「光彩」の中に記している。難病や根治的な治療法のないがんと告知された時に不安から逃れる術は、「その日その日を一生懸命に生きることだ」と私に教えてくれた。
2013年3月に私も南九州病院を退官後、現在の急性期医療を専門とする南風病院に移ったので、ともすれば忘れがちになる「筋ジス医療」の世界に繋ぎ止めてくれたともいえる。生まれた時から難病の一つである脊髄性筋萎縮症という病気と闘いながら、持ち前のおおらかさで明るく懸命に生き抜いた生き方は、障がいを抱えた人のロールモデルだったと評価している。
私も筋ジス病棟を去って4年以上が経つ。在りし日を振り返るとき、あの時代は考えようによっては「ユートピア的世界ではなかったのか」とひそかに誇りに思っている。先日、下関の梶山さん(美由紀の仕事上の友人でもあったという)を見舞いに行った時、「古き良き病棟という感じでしたね」と似たような表現を使っていた。「笑ったり泣いたり怒ったりと、人間臭さがありました」とも語っていた。彼も当時、松江病院の筋ジス病棟に入院していた。
どんなに辛かったことでも、過ぎ去ってしまえば甘い思い出に変わってしまう。それでも「よかったなあ、あの頃は」と、つい思ってしまう。入院していた患者さんの病状も軽く、スタッフも若く元気があり、「この病気とそして病気の人をどうにかしたい」という強い使命感に燃えた若いスタッフが集っていた。そしてまた、病院経営を特段気にすることもないいい時代だった。
私が退官するときに、山田君(脊髄性筋萎縮症)が南日本新聞の「ひろば」欄に、「福永先生と過ごした輝ける年月」というタイトルで投稿してくれている。
・・・先生と過ごしてきた年月には、今は衰えてしまった身体でもそれぞれにはつらつとしていた瞬間があり、過酷な症状になってもベッド上から自分を発信する姿もある。またその中には、夢半ばで天に旅立った僚友たちの顔もあった・・・
どうしようもないことだが、歳月とともに「筋ジス病棟の仲間が一人ずつ旅立った」という報せを聞くしかないもどかしさを感じている。
16歳の若さで亡くなった冨満君(筋ジストロフィー)は、亡くなる数日前まで、夢だったアメリカへの留学のためだと英検の勉強を続けていた。「自分のしたいことはしたいし、そのために精一杯の努力をする」と言いつつも、遂に夢は叶えられなかった。ただ私たちの胸の中に代えがたい大きな贈り物を残してくれた。「健康とは体が自由に動くことだけではないのかもしれない」と。
35歳で、あたかも旅に出かけるように逝った轟木君(筋ジストロフィー)は、パソコンを自在に操り、「寝たきりの生活でありながら、やる気さえあれば可能性は無限大に広がっていきます。近い将来、私も死を迎えます。死を前にしていかに生きるか、その答えは過去にこだわらず、常に前向きに一生懸命に生きていくことではないでしょうか。今日が終わらなければ明日はこない。今日を楽しむことが全てです」と、その著書「光彩」の中に記している。難病や根治的な治療法のないがんと告知された時に不安から逃れる術は、「その日その日を一生懸命に生きることだ」と私に教えてくれた。
