Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

聖マリア学園吉野幼稚園「父の日お祝い会」での講演(4)(2017/07/06) 

そのあと、「人選のまちがいでは?!」と思ったことを話しながら、「言い訳しますと・・・仕事が忙しかったということもあって、子育ては家内任せになって、運動会にも参加することは殆どなかったです。加治木養護学校の運動会と重なることが多くて・・・いわゆる父性ついて、父親らしきことを何もしてこなかった。後悔先に立たずとは私のことですね。反省しきりですが、人生のことは後で振り返ってみてはじめて判ることが多いです。やり直しができれば、もっとうまく人生も処することができるのでしょうが。
まず断っておかなければならないのは、父性という言葉は役割としての抽象的な概念であって、父親とは少し違うということです。母親でも父性の役割を果たさなければならないことは多いですし、必ずしも父親と父性という言葉は同一ではないということを理解してください。あくまで役割としての父性、子供との関係における父性だということです(出席者は8割ぐらいが父親で、さまざまな理由であろうが、2割ぐらいは母親が出席されていた)。
振り返って考えますと、仕事と子育てが両立しないわけではないと思います。我々の世代では、「子供は親の背中を見て育つもんだ」と言われていましたが、やはりあれは言い訳だったのかも知れません。もっとも私の場合には、父親とじっくり話したことはほとんどなかったですが、働く姿から父が言おうとしたことや私への期待していることをなんとなくわかっていたように思います。私の父親は61歳で急逝してしまいましたので、今からじっくり話すこともあるかも知れないと思っていたときの急逝でした。ただ父をよく知る人は、私が最もよく父に似ていると言います。
それでもやはり、子供とはきちんと向き合って、しつけやルールを教えることが大切だと思います。対話ではなくて(対話は対等の立場と言うことになりますので)、親と子供という立場できちんとしつけていかなければ、子供にはわからないのです。子供の時代にきちんとした世の中のルールを教えておかないと、大きくなってから無気力で方向性のつかめない、俗に言われるところの「モラトリアム」の時代を長く引きずってしまうことになります。
もうだいぶ昔の話ですが、南九州病院にいたころ、知り合いの看護師さんからお孫さんのことで相談を受けたことがありました。
24歳の青年で、高専を中退し仕事もせずに、ぶらぶらしている。よく眠っているのでナルコレプシーではないかということでしたが、神経学的な病気は見つかりませんでした。診察すると異状はなく普通の人のよさそうな青年で、ちょっと覇気にかける感じでした。「母子家庭で、母親が病気だったので、私(祖母)が一生懸命に育ててきました。小さい頃は利口で心配かけるような子供ではなかったのですが・・・」ということでした。結局この青年の場合、自分で何をやりたいかはっきりしなくて、社会との関わりを持つことができずに、その中で自分の役割や価値を見つけられないでいる状態でした。父性の立場での教育がなされず、母性の関わりだけで成長してしまうと、このような青年になりがちだということです。」