Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

佐久同窓会(2017/08/25) 

私が初めて佐久病院を訪ねたのは大学4年のことだったから、1970年の夏ということになる。当時医学部の社会医学研究会で活動していたが、この研究会ではいくつかの班に分かれて活動していた。私は農夫症班に属していたので、佐久病院の若月先生が指導しているという八千穂村での農民体操を直に見てみたいと思ったのである。
   「農民と共に」を合言葉に、戦後60年近く、地域医療や農村医療に尽力された若月俊一は、2006年8月に96歳で亡くなられている。「若月俊一」という、この言葉は医学部の学生時代、私にとっては仰ぎ見る理想の偶像であり、盲目的なカリスマ的存在だった。
 私と佐久病院との直接的なつながりはこの時の一週間ほどの研修だけで終わったが、その後も何かと気になる病院だった。
   ところで佐久総合病院は現在では急性期医療に特化した佐久医療センターと慢性疾患の診療、在宅医療、健康づくりなどを担う佐久総合病院(本院)の1000床を超す病院群に発展している。この4月から、当院で働いてくれている崎山先生は初期研修の時代から7年間を佐久病院で仕事をしていた。やはり佐久病院で研修されていたという、かねて懇意にしている松尾先生ご夫妻(現在それぞれ小田代病院と済生会病院に勤務)と、崎山先生の歓迎会を兼ねて同窓会を開きたいと考えていた。
   そこで8月18日、私が仕切り役(幹事役)となって、天文館の熊襲亭で佐久(咲く)同窓会と銘打って、飲み会を開くことになった。
   19時前に熊襲亭に到着、3階の高千穂の間に案内されたが、まだ誰も来ていない。19時過ぎに崎山先生、その後で松尾先生(奥さん)が来られたが、松尾先生は患者さんの都合で30分ほど遅れて到着した。
   まず仕切り役の私が、佐久病院との関係での自己紹介を始めた。その次に崎山先生に自己紹介してもらったが、先生は大学6年の時に佐久病院で研修している2年先輩の影響で研修先に佐久病院を選んだという。それでもあの寒い佐久で、7年間も研修したのは「何かを持っている」先生だと思っていたが、この4月からの仕事ぶりを見ていると、さすがに佐久病院での臨床経験がそのまま生かされているようである。
   最後に松尾ご夫妻であるが、先生は外見からはいつも破天荒で型破りな先生に見える(この夜は比較的まともな服装)。長崎大学をちょっと遅れて卒業し、研修先を決める時には大学の掲示板の佐久病院の紹介記事が気に入って選んだという。
   先生は長崎大学に入学後、ボートにはまり、国体にも長崎県代表で出場したというから驚くばかりである。年間100日ほど合宿があったというから、まともに進級できるはずはなかろう。奥さんは埼玉県出身で、長崎大学では2年後輩で学生結婚、卒業は一緒で揃って佐久病院で研修を受けたのだという。その後松尾夫妻は神戸大学を経て、加計呂麻島で5年間の離島医療に励んだというからただ者ではない。昆虫が好きで、熱帯医学会にも属しているというから、その人となりが想像頂けよう。少年をそのまま壮年にしたような愛すべき人格で、そのことが現在の医療の姿勢にも生かされているような気がする。
   2時間ちょっとの「咲く同窓会」だったが、実に楽しかった。崎山先生は高校では山岳部だったそうで、宮之浦岳にも何度も登っているようである。それぞれ佐久病院の思い出を語ってもらったが、個性豊かな先生方の集団のようで、それぞれに若月イズムが今も地下水脈のように息づいているようである。