ボリビアの密林に散ったフレディ前村の光跡(4)(2017/10/26)
☆ ゲバラの広島訪問とフレディのキューバ留学
さてこの映画はゲバラからファーストネーム「エルネスト」を託された日系ボリビア人・フレディ前村の激動の半生を描いている。これ以降の記載は、ネットなどから多くの部分を引用していることをご承知いただきたい。
映画は1959年にゲバラが広島を訪れる場面から始まる。「核のおぞましさを、実感を持って知ったチェ・ゲバラと、日系人のフレディが、キューバ危機を通じて出会っていく。これは日本人の監督にしか撮れない」と直感したという。
史実を基にした物語で、ゲバラが広島を訪れ、広島平和記念公園で献花を行う“広島編”と、フレディ前村がゲバラへと傾倒し革命に身を投じる“キューバ編”で構成されている。
ゲバラはキューバ革命から約半年が経過した1959年夏(あの60年安保の前年である)、キューバ政府使節団として訪日した。スケジュールを急遽変更して広島市に足を伸ばし、広島平和記念資料館や広島平和記念公園、原爆病院を訪問している。最近の新聞報道によると、現地から妻に宛てて送ったハガキがキューバで見つかった。「平和のために断固として闘うには、この地を訪れるのが良い」などと記されていた。
映画の冒頭、1959年、外務省は騒然としていた。日本政府の対応は冷淡で、当時の通産大臣の池田さんが15分ほど会っただけである。ゲバラがは予定していた神戸での工場視察を突然キャンセルし、大阪から夜行列車に乗って広島へ向かったのだ。ゲバラを団長とするキューバ使節団一行が、車内で駅弁とお茶を買って食べるシーンがある。使節団と言っても、広島へ向かったのは在日キューバ大使を含め3人だけだった。
ゲバラの突然の訪問に広島県庁では新聞記者たちが騒ぎ出す。中国新聞の森英雄記者(永山絢斗)もその中にいた。彼はゲバラを取材するため急いで広島平和記念公園に向かう。
原爆資料館で凄惨な写真を見ながら、ゲバラは険しい表情で日本人通訳に何かささやく。すぐに森記者は通訳に駆け寄り、「彼は今、何と言ったのですか?」と聞く。
「君たちは、アメリカにこんなひどい目に遭わされて、どうして怒らないんだ」と。
アメリカ大統領のオバマが慰霊碑を訪問したのは、その時から60年近くのちのことになる。
映画は「キューバ編」に移る。
1962年秋、フレディはキューバの医学校にボリビアからの25人の留学生の一人として奨学金を得て入学する。そして入学から5日目に、キューバ危機に遭遇する。フレディは学内のボリビア人留学生グループのまとめ役として機関誌の発行などに関わる一方、ボリビア社会の貧困を見た経験から医学の勉強にも打ち込み、ハバナ大学に進学する。解剖の実習シーンなどがリアルに映し出される。その間にフィデル・カストロやゲバラと会う機会も得た。
1964年に故国ボリビアで軍事クーデターが起き、フレディは次第にボリビアでの反政府運動に参加する意思を抑えがたくなっていく。スクリーンには揺れ動く心の青春模様が丹念に描かれる。幼少時に経験した故郷の貧しい農村の現状、家族への思い(父親は亡くなっており、母親に心配はかけたくないとの思いで、後にゲリラ軍に参加するときにはそのことを秘密にしてほしいと友だちに頼んでいる)など。
またカストロ将軍に会うチャンスが訪れた時、フレディが「今、自分がやるべきことは?」と質問したら、「いつか君の心が教えてくれるよ」と言われる。その言葉がずっと脳裏にあった。フレディは軍人や地主が農民から搾取するボリビア社会への怒りは抑えがたくなり、キューバ政府の募集する革命支援隊に志願した。合格してゲバラから「エルネスト」という呼び名を与えられる。フレディはキューバを離れ、武器の扱い方などの訓練を受けて故国ボリビアの反政府ゲリラ活動に身を投じることになる。
さてこの映画はゲバラからファーストネーム「エルネスト」を託された日系ボリビア人・フレディ前村の激動の半生を描いている。これ以降の記載は、ネットなどから多くの部分を引用していることをご承知いただきたい。
映画は1959年にゲバラが広島を訪れる場面から始まる。「核のおぞましさを、実感を持って知ったチェ・ゲバラと、日系人のフレディが、キューバ危機を通じて出会っていく。これは日本人の監督にしか撮れない」と直感したという。
史実を基にした物語で、ゲバラが広島を訪れ、広島平和記念公園で献花を行う“広島編”と、フレディ前村がゲバラへと傾倒し革命に身を投じる“キューバ編”で構成されている。
ゲバラはキューバ革命から約半年が経過した1959年夏(あの60年安保の前年である)、キューバ政府使節団として訪日した。スケジュールを急遽変更して広島市に足を伸ばし、広島平和記念資料館や広島平和記念公園、原爆病院を訪問している。最近の新聞報道によると、現地から妻に宛てて送ったハガキがキューバで見つかった。「平和のために断固として闘うには、この地を訪れるのが良い」などと記されていた。
映画の冒頭、1959年、外務省は騒然としていた。日本政府の対応は冷淡で、当時の通産大臣の池田さんが15分ほど会っただけである。ゲバラがは予定していた神戸での工場視察を突然キャンセルし、大阪から夜行列車に乗って広島へ向かったのだ。ゲバラを団長とするキューバ使節団一行が、車内で駅弁とお茶を買って食べるシーンがある。使節団と言っても、広島へ向かったのは在日キューバ大使を含め3人だけだった。
ゲバラの突然の訪問に広島県庁では新聞記者たちが騒ぎ出す。中国新聞の森英雄記者(永山絢斗)もその中にいた。彼はゲバラを取材するため急いで広島平和記念公園に向かう。
原爆資料館で凄惨な写真を見ながら、ゲバラは険しい表情で日本人通訳に何かささやく。すぐに森記者は通訳に駆け寄り、「彼は今、何と言ったのですか?」と聞く。
「君たちは、アメリカにこんなひどい目に遭わされて、どうして怒らないんだ」と。
アメリカ大統領のオバマが慰霊碑を訪問したのは、その時から60年近くのちのことになる。
映画は「キューバ編」に移る。
1962年秋、フレディはキューバの医学校にボリビアからの25人の留学生の一人として奨学金を得て入学する。そして入学から5日目に、キューバ危機に遭遇する。フレディは学内のボリビア人留学生グループのまとめ役として機関誌の発行などに関わる一方、ボリビア社会の貧困を見た経験から医学の勉強にも打ち込み、ハバナ大学に進学する。解剖の実習シーンなどがリアルに映し出される。その間にフィデル・カストロやゲバラと会う機会も得た。
1964年に故国ボリビアで軍事クーデターが起き、フレディは次第にボリビアでの反政府運動に参加する意思を抑えがたくなっていく。スクリーンには揺れ動く心の青春模様が丹念に描かれる。幼少時に経験した故郷の貧しい農村の現状、家族への思い(父親は亡くなっており、母親に心配はかけたくないとの思いで、後にゲリラ軍に参加するときにはそのことを秘密にしてほしいと友だちに頼んでいる)など。
またカストロ将軍に会うチャンスが訪れた時、フレディが「今、自分がやるべきことは?」と質問したら、「いつか君の心が教えてくれるよ」と言われる。その言葉がずっと脳裏にあった。フレディは軍人や地主が農民から搾取するボリビア社会への怒りは抑えがたくなり、キューバ政府の募集する革命支援隊に志願した。合格してゲバラから「エルネスト」という呼び名を与えられる。フレディはキューバを離れ、武器の扱い方などの訓練を受けて故国ボリビアの反政府ゲリラ活動に身を投じることになる。
