Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

ボリビアの密林に散ったフレディ前村の光跡(2)(2017/10/24) 

☆ フロンティア精神と移民
 さてフレディの父親の純吉は、1913年(大正2年)に耳原から南米ペルーに渡った(20歳)。私の父は明治45年の生まれだったので、2歳の時になる。その後、私の父は苦学しながら師範学校に入学している。出稼ぎ先の農園の労働は過酷を極めたため、徒歩でアンデス山脈を越えてボリビアに移った。そして雑貨店を開店して富を築き、ボリビア人女性との間に3男2女をもうけたのだという。
 それにしてもフレディの革命家としての資質は、どのようにして培われたのか。
 純吉に続いてペルーに渡った前村のおじ、重春を知る福元福一さん(78)は「昔からここは貧しい地域でしたが、村の祭りや公民館の建設費も米国や南米に出稼ぎに行った人の寄付でまかなえた。正義感が強くて地域に尽くす人が多かったね」と語っている。私が小さいころに村の広場で相撲大会が開かれていたが、その時の賞品にも海外に移民した人たちからの寄付があったように思う。貧しい村だったが、祭りや行事は盛んに行われていた。また小学校のピアノも移民の人から贈られてきたもので、大事に扱われていたようで、姉の話では雷が鳴ったりすると子どもたちで護っていたということである。
 新聞記事によると、耳原集落の杉林の中に外国渡航者からの寄付を語り継ぐ石碑が掲載されているが、私はその存在すら知らなかった。郷土史に詳しい県立図書館の原口泉館長は、「江戸時代から薩摩藩には開拓政策があり、フロンティア精神あふれる人が多い。特に頴娃町のあたりはかつて不毛の地で、移民を多く輩出している」と説明し、「フレディの功績は、移民の歴史を持つ薩摩に誇りと勇気を与えてくれる」と評しておられる。
 確かに親戚にもアメリカなどに移民している人が多い。
 私は1980年代の初頭に留学していたときに、ロサンゼルスに住んでいた母の従妹に会いに行った。広島生まれのご主人と暮らしていたが、三人の子どもたちには会うことはできなかった。両親は160センチぐらいで小柄なのに、3人の男の子はみな180センチを超えているという。その時に「遺伝子よりも環境なのだなあ」と思ったものである。両親が教育熱心で一生懸命勉強させたようで、長男はセントルイスにあるワシントン大学医学部を卒業して医師に、後の二人はスタンフォード大学の学生だという。子供たちは日本語を全く話せないということだったが、意識的に日本から距離を置こうと考えていたようである。戦後日本を一度も訪れたことはない(ハワイまでは行っても)ということで、その理由も戦中や戦後に日本に対して嫌な思いを持ったようである。それでも「一人くらいは金髪の嫁さんでない方が・・・」と話されていたが、その願いもかなわなかったという。三人の息子たちと直接会って話したいと思っていたが、この願いも叶えられそうにない。
 また私の留学中に、母と義母の二人がミネソタのロチェスターまで遊びに来てくれたことがあった。その途中サンフランシスコ近いサクラメントに立ち寄り、多くの親戚が集まって歓待されたと、母がうれしそうに話していた。でも今や母も義母も、従妹も、みんなあの世に逝ってしまっている。