Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

ボリビアの密林に散ったフレディ前村の光跡(1)(2017/10/23) 

☆ 一つの新聞記事から
 100年以上前に頴娃町(現南九州市)の寒村から、海外に移民した20歳の青年からこの物語は始まる。大正初期に海外に夢を求めた故郷の先人たち、その二世の葛藤、時空を超えて私の頭の中でさまざまな思いが去来する。
 私たちが学生の頃、チェ・ゲバラという名前はその「道」に少しでも足を踏み入れた者にとっては、憧れのまぶしすぎる革命家の名前であった。ゲバラ本が多数刊行され、ゲバラの風貌をかたどったTシャツも流行ったものである。なにしろ格好良いカリスマだった。キューバ革命はカストロではなくて、本当はゲバラの功績が大きかったのだと言われていた。革命が成就した後には一時的にキューバで要職に就くが、またボリビアでの革命を目指して山中に入っていく。その潔い後ろ姿も、当時の若い青年たちの琴線に触れたのかも知れない。アルゼンチン大学医学部を卒業した医師だったということも、私が共感したことの一つの理由であった。人は自分が夢見てもできそうにないことに果敢に挑戦する姿に、畏敬と憧れの念を抱くものである。
 ゲバラの年表を調べてみると、1967年(昭和42年)10月8日にボリビアの村の近くで捕えられ、銃殺刑にされている。まだ39歳という若さだった。
 今回、私が触れようとしているフレディ・前村・ウルタード(以下フレディと略)も、ゲバラの死の2か月前に政府軍によって捕えられ、同じように銃殺されている(25歳)。キューバのゲバラ記念館には、一緒に戦った同志としてそのレリーフが「エルネスト・メディコ(医師)」という名前で飾られている(映画の中で知った)。
 ボリビアでの軍事政権下ではフレディの死後、家族も一時拘束され、軍の監視下に置かれた。反逆者としての汚名がそがれ始めたのはゲバラの遺骨発掘が始まった90年代である。そして2005年に左派政権が誕生し、フレディらの評価が見直されたのである。歴史は巡るものである。
 昭和42年というと、私は医学部2年で19歳だったのでフレディの6歳下になるわけである。「たられば」を拡大解釈すれば、頴娃町立松原小学校で一緒に学んでいたのかもしれないと思うと、にわかに親近感が増してくる。
 さてこの項の発端は、地元紙南日本新聞の土曜日(2017年10月14日)の社会面に大きな見出しで掲載された「頴娃2世の闘士 映画に」という記事が目にとまったからである。
 「1959年のキューバ革命の英雄エルネスト・チェ・ゲバラと共に、ボリビアでの革命を目指した日系人がいた。南九州市頴娃町の耳原集落からボリビアに移住した父を持つフレディ・前村・ウルタード(享年25)。虐げられた農民を救い、自由な社会をもたらそうと決起した・・・」とある。
 なんとこの耳原集落こそ、私の生まれ育った(小学校4年まで)古里である。薩摩半島の南端から西に4キロほどの寒村で、知覧町に接しており、台地の上からは東シナ海を一望できる。現在は過疎化も進んで、人口はどのくらいになっているのか想像もできない。福永、福元、高田(高田みずえで有名)、大原の4つの姓でほとんど占められており、前村という姓は少ないかと思う。
 先日、PET健診の時の説明で、「福元」という姓の方がおられたので「どこの福元ですか」と訊ねてみた。「祖先は頴娃だということです」と言われる。そしてお祖父さんは耳原の出身で、満州から引き揚げて、設計事務所(県の会長などを歴任されたと父に聞いたように思う)を開いていたという。そういえば幼い時に父から「福元マサオさんという偉い人がいたと聞いたことがあります」と話すことだった。