「新燃岳」再噴火(後)(2017/10/20)
2011年(平成23年)1月19日 1時19分 空振を伴った小規模なマグマ水蒸気噴火、噴煙高度 200m。1月22日 噴火。1月26日 14時49分 噴出が強まる(準プリニー式噴火)。17時05分には火口から3000m上空まで噴煙が上がるのが確認された。噴火警戒レベル3、火口周辺2km立ち入り規制となったのである。その後、半年ほど噴火は続いた。
さて私たちにとって新燃岳が特別な山となったのは、平成10年8月3日に筋ジス病棟で亡くなった轟木敏秀君に依るものである。それは敏秀君の遺言で、遺灰を頂上の窪地に散骨しているからである。山麓のえびの市で生まれ育った彼は、いつかはあの山に登りたいという強い願望を持っていた。しかしそれも叶わぬまま、35歳で逝ってしまった。
以来毎年、生前に彼と親しかった有志(多くはボランティアで、彼のIT関連の作業を長年にわたって手助けしてくれた)で、慰霊登山を行ってきた。季節としては紅葉の秋が多かったが、時にはミヤマキリシマを見たいということで、春に登ったこともあった。
東京から飛行機で来られる人たちを朝10時頃に鹿児島空港でピックアップして、途中で花や弁当を買って、11時頃に高千穂河原から登りはじめる。中岳を経て、約2時間余りで新燃岳の頂上に立つ。頂上から見渡せる眺めは素晴らしく、高千穂の峰への稜線や高原町へと下るミヤマキリシマの群生はいつ見ても美しく感動的で、また蒼く神秘な火口湖を眺めることもできた。当時、中岳から新燃岳へのルートはよく整備されており、木材やブロックで作った階段が整然と頂上近くまで続いており、私たちは「天国への階段」と呼んでいた。
ところが2009年5月30日に登った時(本格的な噴火の2年前)には、新燃池は黄褐色に濁り、火口には白い煙が立ち上って硫黄の臭いもした。この時に近いうちに爆発が起きるかもしれないという予感はしていたが、現実のことになるとは思ってもいなかった。いつも頂上の大きな岩に数人ずつ腰かけながら弁当を食べた後、敏秀君の遺骨を撒いたミヤマキリシマに囲まれた窪地に、花とビールを手向けて帰路につくのが習わしだった。そしてその夜は、麓のペンションなどで楽しい一夜を過ごしたものである。
先日、敏秀君の生き方、死に方を詳細に記述した「死亡退院」(2004年)を著わした作家の清水哲男さんが、健診に訪れたので、院内カフェでしばし昔の思い出を語ることだった。清水さんは都合3回新燃岳に登られた(敏秀君は1998年に亡くなっているので、2010年までの13回ほど追悼登山は行われたことになる)そうで、当時の体重(高知を旅行中に、通りすがりのおばあさんに『きのどっかぐらいふとっちょいますな』と気の毒がられたという逸話の持ち主)では大変なことだったかとおもんばかれる。お互いに「もう、登れんかもな」と話すことだった。
今やこの窪地は陰も形もないだろうが、人の心の中に残っていたらそれで十分である。今回の再噴火で、私が生きているうちにまたこの山頂に立つことは無理のように思われる。それがやはり残念でならない。
さて私たちにとって新燃岳が特別な山となったのは、平成10年8月3日に筋ジス病棟で亡くなった轟木敏秀君に依るものである。それは敏秀君の遺言で、遺灰を頂上の窪地に散骨しているからである。山麓のえびの市で生まれ育った彼は、いつかはあの山に登りたいという強い願望を持っていた。しかしそれも叶わぬまま、35歳で逝ってしまった。
以来毎年、生前に彼と親しかった有志(多くはボランティアで、彼のIT関連の作業を長年にわたって手助けしてくれた)で、慰霊登山を行ってきた。季節としては紅葉の秋が多かったが、時にはミヤマキリシマを見たいということで、春に登ったこともあった。
東京から飛行機で来られる人たちを朝10時頃に鹿児島空港でピックアップして、途中で花や弁当を買って、11時頃に高千穂河原から登りはじめる。中岳を経て、約2時間余りで新燃岳の頂上に立つ。頂上から見渡せる眺めは素晴らしく、高千穂の峰への稜線や高原町へと下るミヤマキリシマの群生はいつ見ても美しく感動的で、また蒼く神秘な火口湖を眺めることもできた。当時、中岳から新燃岳へのルートはよく整備されており、木材やブロックで作った階段が整然と頂上近くまで続いており、私たちは「天国への階段」と呼んでいた。
ところが2009年5月30日に登った時(本格的な噴火の2年前)には、新燃池は黄褐色に濁り、火口には白い煙が立ち上って硫黄の臭いもした。この時に近いうちに爆発が起きるかもしれないという予感はしていたが、現実のことになるとは思ってもいなかった。いつも頂上の大きな岩に数人ずつ腰かけながら弁当を食べた後、敏秀君の遺骨を撒いたミヤマキリシマに囲まれた窪地に、花とビールを手向けて帰路につくのが習わしだった。そしてその夜は、麓のペンションなどで楽しい一夜を過ごしたものである。
先日、敏秀君の生き方、死に方を詳細に記述した「死亡退院」(2004年)を著わした作家の清水哲男さんが、健診に訪れたので、院内カフェでしばし昔の思い出を語ることだった。清水さんは都合3回新燃岳に登られた(敏秀君は1998年に亡くなっているので、2010年までの13回ほど追悼登山は行われたことになる)そうで、当時の体重(高知を旅行中に、通りすがりのおばあさんに『きのどっかぐらいふとっちょいますな』と気の毒がられたという逸話の持ち主)では大変なことだったかとおもんばかれる。お互いに「もう、登れんかもな」と話すことだった。
今やこの窪地は陰も形もないだろうが、人の心の中に残っていたらそれで十分である。今回の再噴火で、私が生きているうちにまたこの山頂に立つことは無理のように思われる。それがやはり残念でならない。
