甑島巡回医療相談(前)(2017/10/03)
恒例となっている県難病相談支援センターの巡回医療相談が、今回は甑島で行われることとなった。
甑島列島は市町村合併により現在は薩摩川内市となっているが、東シナ海に浮かぶ孤島である。長さは38km、幅は10kmで、その隔絶性から歴史と民俗の宝庫とされてきた。北東から南西にかけて上甑島、中甑島、下甑島の有人島3島が並んでいる。上甑島の里集落の陸繋砂州(トンボロ)、3つの池と東シナ海とが砂州で区切られた長目の浜などが有名である。
9月21日の朝7時にセンターを保健師の永山さんの運転で出発した。行きは私が京都の学会から帰ってきた直後だったので、永山さんの京都での看護学校の時代の懐かしい「物語」に、帰りの車中は保健所勤務時代に仕えた「保健所長の優れた特質」などで話がもり上がった。天気はどんよりした曇り空で、時々雨もぱらつく。
高速道路を利用して川内まで、道路が延長していたお蔭もあって、出発の50分ほど前には港についていた。8時50分発の高速船に、川薩保健所の石野保健師と共に乗船、甑島まで50分、9時40分には里港に着いた。風はなかったので、白波がわずかに立つ程度で揺れはさほど感じなかった。内装は九州新幹線を手がけた工業デザイナーの水戸岡鋭治で、そのために座席など新幹線に乗っているかと間違ってしまいそうである。石野さんとはゆっくり話す機会は初めてであったが、保健師になって10年ほどだという。患者訪問など現場重視の姿勢が感じられ、意欲的で有能な保健師であることがよくわかる。
さて甑島に到着後、朝方は永山さんと石野さんは指定難病の更新手続きの事務処理を行うということで、私は旧知の中村さんのご自宅を訪問して一年ほど前に亡くなられたご主人のさねとさんの仏前に線香をあげたいと考えていた。里港には90歳になられた中村さんと嫁さんが、車で迎えに来てくれていた。ご自宅まで5分ほど、海の近くできれいな庭を前にした佇まいであった。
さねとさんとの繋がりは南九州病院時代に遡る。パーキンソン病の治療のために二月に一回ほど甑島から通院してもらっていた。かって里診療所の事務長をされており、亡くなられたのちに発刊された追悼集には、職員の方々が「誰よりも真面目に誠実に、誰よりも優しくていねいに、行政の仕事人だったさねとさん、事務を知るだけではなく、患者の痛みを知り、老いの深さを知るさねとさん」と語っていた。物静かで私とも病気のこと以外には話すことは少なかったが、あうんの間合いというか、しゃべらなくても何となく気持ちが通じ合っていることを感じられる不思議な方だった。ちなみに、さねとさんの息子さんの隆司さんは、「麦の芽福祉会」の法人本部長で、この法人の育ての親ともいえる存在である。なりふりに構わず働き続け、鹿児島県でも有数の福祉法人に発展させた。
甑島列島は市町村合併により現在は薩摩川内市となっているが、東シナ海に浮かぶ孤島である。長さは38km、幅は10kmで、その隔絶性から歴史と民俗の宝庫とされてきた。北東から南西にかけて上甑島、中甑島、下甑島の有人島3島が並んでいる。上甑島の里集落の陸繋砂州(トンボロ)、3つの池と東シナ海とが砂州で区切られた長目の浜などが有名である。
9月21日の朝7時にセンターを保健師の永山さんの運転で出発した。行きは私が京都の学会から帰ってきた直後だったので、永山さんの京都での看護学校の時代の懐かしい「物語」に、帰りの車中は保健所勤務時代に仕えた「保健所長の優れた特質」などで話がもり上がった。天気はどんよりした曇り空で、時々雨もぱらつく。
高速道路を利用して川内まで、道路が延長していたお蔭もあって、出発の50分ほど前には港についていた。8時50分発の高速船に、川薩保健所の石野保健師と共に乗船、甑島まで50分、9時40分には里港に着いた。風はなかったので、白波がわずかに立つ程度で揺れはさほど感じなかった。内装は九州新幹線を手がけた工業デザイナーの水戸岡鋭治で、そのために座席など新幹線に乗っているかと間違ってしまいそうである。石野さんとはゆっくり話す機会は初めてであったが、保健師になって10年ほどだという。患者訪問など現場重視の姿勢が感じられ、意欲的で有能な保健師であることがよくわかる。
さて甑島に到着後、朝方は永山さんと石野さんは指定難病の更新手続きの事務処理を行うということで、私は旧知の中村さんのご自宅を訪問して一年ほど前に亡くなられたご主人のさねとさんの仏前に線香をあげたいと考えていた。里港には90歳になられた中村さんと嫁さんが、車で迎えに来てくれていた。ご自宅まで5分ほど、海の近くできれいな庭を前にした佇まいであった。
さねとさんとの繋がりは南九州病院時代に遡る。パーキンソン病の治療のために二月に一回ほど甑島から通院してもらっていた。かって里診療所の事務長をされており、亡くなられたのちに発刊された追悼集には、職員の方々が「誰よりも真面目に誠実に、誰よりも優しくていねいに、行政の仕事人だったさねとさん、事務を知るだけではなく、患者の痛みを知り、老いの深さを知るさねとさん」と語っていた。物静かで私とも病気のこと以外には話すことは少なかったが、あうんの間合いというか、しゃべらなくても何となく気持ちが通じ合っていることを感じられる不思議な方だった。ちなみに、さねとさんの息子さんの隆司さんは、「麦の芽福祉会」の法人本部長で、この法人の育ての親ともいえる存在である。なりふりに構わず働き続け、鹿児島県でも有数の福祉法人に発展させた。
