Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

公衆衛生学会(2)(2017/11/16) 

さて学会当日、秋晴れのなかを病院から歩いて県民交流センターに向かった。わずか10分ほどの距離にある。発表は9時20分からになっていたが、座長の納先生との打ち合わせやパワーポイントの設定があるために、9時前には会場に着いた。私の講演予定の3階の大会議室に入ると、当初はまばらで「まだ難病に対する認識は薄いのかな」とちょっと心配したが、講演の始まるころには8分ほどは埋まっていた。かねてよく知る難病相談支援センターのスタッフや県下の面識のある保健師などが、「サクラの木になって」聴きに来てくれていた。珍しいところでは、水島洋先生(保健医療科学院研究情報支援研究センター長)や武藤香織先生(東京大学医科学研究所教授)、鶴田憲一先生(静岡県理事)なども見えていた(夜の懇親会場で、田中剛先生、現在は広島県医療・がん対策部長から『私もおりましたよ』と言われたが、気づかなかった)。
 まず納先生に私の紹介をしていただいたが、先生との間には長い物語がある。先生は3内科に入局して以来の井形門下の兄弟子ということになる。私たちの学年は新設間もない第三内科に12人ほどが入局した。神経内科を専門とする内科だったので専攻する神経学には馴染みは薄かったが、多くは新進気鋭の井形先生に惹かれての入局だった。ところが入局早々、助教授を誰にするかで医局は大荒れに荒れて、結局半分ほどが退局してしまった。納先生とはそれまでほとんど面識がなかったこともあって私を当初、先生とは対立していた講師の方に色分けして考えていたようである。
 先生には昭和51年に都立府中病院の出張から医局に帰って来て以降、55年に留学するまで何かと親身になって指導していただいた。当時、先生の研究スタイルは夜型(現在は日本画を描くときには朝早いという)で、私は今と同じ朝型だったが、夜型に変えて遅くまでお付き合いしたものである。先生の直観力と集中力には凄いものがあり、臨床像から筋組織の中に特殊な物質(ネマリン小体など)があるはずだと睨んだら、電子顕微鏡の前でいつまでも探しつけるまで粘るなど、並外れた外れた体力と根性を持っておられた。
 アメリカへの留学でも、納先生には一から十までお世話になった。先生は信長タイプで開拓者精神にあふれており、困難な中でも自ら切り開いていく能力には特に優れていた。私はエンゲルラボでは納先生の後を引き継ぐ形になったが、これが逆だったらうまくいかなかっただろうと思う。この講演の冒頭、「3人の若者(私の後を引き継いだ福岡先生も含めて)が技術を後輩に伝授しながら、それぞれ3年間、計9年間の臥薪嘗胆の末、一連の研究を完成させた」というスライド(納先生の講演から拝借)を紹介した。
 共通するところは「鹿児島弁」というところである。先生は大学時代は博多に6年、東京にも何年もおられたのに、からいも標準語のままである。ずいぶん昔のことだが、神経学会の九州地方会で、私が座長で納先生が挙手したので、「納先生どうぞ」と言ったことがある。するとそのままイントネーションが移ってしまって鹿児島弁でのやり取りになった。医局で「公的な話し合いでは、先生と納先生は一緒にならない方がいいかも」と冗談交じりに言われたことがあった。先生はアメリカからの帰国後はHAMに専念したので筋肉病学からは遠ざかっていき、私も南九州病院の出張後は医局に戻ることはなかったので、直接指導を受けることはなくなった。