「夢」と「気力」(2018/01/15)
星野仙一が最近、膵臓がんで亡くなった。70歳だった。1947年1月22日の生まれなので、私と同じ年に生まれ、学年は一学年上ということになる。
その星野から、2003年に阪神タイガースが優勝した年に元NHKスポアナの島村俊治さんを通して色紙を貰っていたことを思い出した。恐らく見つからないだろうと思っていたら、本棚の奥から王選手からもらっていた「気力」という色紙とともに出てきたのである。(2005年1月1日と書かれているが、翌年胃がんの手術を受けている。病気を知って、気力と書かれたのかどうかはわからない)。星野は書字がうまかったと言われているが、達筆な字体で「夢」と書かれている。ちなみに王選手の色紙も、浅草の福寿司の大澤さんを経由していただいたものである。「夢」と「気力」、二つの言葉とも今の自分を励ましてくれるものである。
星野が中日を退団してそのまま阪神に移籍したのは2002年で、翌年の2003年の2年目に、「血の入れ替え」によって選手を大きく入れ替え、開幕直後から首位を独走し、7月終了時点で2位に17.5ゲーム差の大差を付け、そのまま2位以下を全く寄せ付けずに18年ぶりのセ・リーグ優勝を飾ったのである。しかし、日本シリーズでは王監督率いるダイエーに3勝4敗で敗れ日本一を逃した。
星野は闘将と呼ばれ、花のある男ように思われていたが、どこか悲劇的で哀しみを漂わせるところもあった。
2003年当時、私はコテコテのトラキチで、前年まで「敵だと思っていた」星野がそのまま阪神の監督になったことに違和感を感じて馴染めないでいた。それでもどうにかして星野ファンになろうと思っていたら、ある週刊誌に次のような記事が載っていた。詳細は忘れてしまったが、星野は小さいころに父親に先立たれて、苦労しながら母親が二人の姉と共に育ててくれたのである。小学校4,5の頃に筋ジストロフィーの同級生がいたが、体の大きかった星野少年が毎日背負って学校まで通学していたという記事だった。当時私は筋ジス病棟を担当していたこともあって、一気に星野との距離感が縮まったことを憶えている。
また優勝の決まった9月15日は、その母親の告別式の日にあたり(13日に亡くなり、14日の中日戦の後で、名古屋から大阪・茨木市内の母の自宅へ車を飛ばし通夜に駆けつけた)、胴上げで宙に舞った。選手たちにはこのことは隠していたということだった。当時のスポ紙によると、胴上げの時には、目を真っ赤にした島野ヘッドコーチは、1997年に51歳で亡くなった扶沙子夫人の遺影も一緒に掲げられていたということである。
ヤフーで検索すると、13年前のある日に、次のように書いている。
我慢の岡田が夢つなぎ(2005年9月30日)
いつものように朝早く病院到着、するとまもなく当直の平田さんから院内電話が。「スワ、なんか事故でも?」と、構えて受話器に向かうと「先生、車のスモールがついてるそうですよ」ということ。「どうしてわかったの」と聞くと、「10病棟の看護師さんが電話してくれました」という。
「どうして忘れたのか」というと、昨夜の余韻が残っていたからであろう。ぼっとしていたのだ。電話はひっきりなしに来るし、パソコンを開くと「おめでとう」というメールが踊っている。冷静に考えれば、おめでたいのは私のオツムで、実質的にはなんらおめでたいことはないハズだ。阪神タイガースの株を買っていたら、と思えどもこれも後の祭り。ヒロシからは、「私が生きているうちには、もうないと思っていましたが・・・」とくる。確かにそれはそうだ、ヒロシが後20年生きているとは思えない。かくいう私も、過去の実績から推定すると、15年、18年振りだったと言うことは、次は20年後となる、生きているのは難しいかも、と思っていたのだから。このような「想定外の出来事」に、想定外の出費もかさみそうで、いささか戸惑っている。恒例の(今年も紅白のシーズンですね、まだ9月なのに)といわれれば、ここで男の沽券にかけても(だから化石?といわれそう)中止するわけには行かない(でも来年は優勝しても中止を宣言したい。イラン心配だが、と筋ジスの弱いウサギファンに言われそうだ)。紅白饅頭は、宛名書きを、黒猫ヤマトからユーパックへと2度も書きなおされた。ご愛顧の小田屋の提携先がユーパックに代わったのだという。箱のラベルは一昨年の「仙ちゃんに感謝、夢実現」から、「我慢の岡田で、夢つなぎ」に決定している。今日、家内が三越の小田屋に出向き、日曜日には出来上がる算段。でも岡田はアホだ、寛美だ、ホモだとののしられながら(先生も散々罵っていたじゃないですか、と言われそう)、よくここまで我慢した。選手起用も、終わってみれば我慢したことが吉と出ている。昨夜の優勝会見も、星野のような華はないけど、誠実に言葉を選んで好感の持てる内容だった。あれが彼の持ち味である。同じ持ち味でも、「日本をあきらめない」の民主の岡田は、ずっこけたのだから、世の中の事、先のことはわからない。ともあれ、今年も終わった。
あしたは、またまた恒例の、敏秀追悼霧島登山。これもそろそろ中止に、と思うのだけど、県外の暇な?連中が仕組んでくれる。何はともあれ、天気が良ければいいのだけど。
その星野から、2003年に阪神タイガースが優勝した年に元NHKスポアナの島村俊治さんを通して色紙を貰っていたことを思い出した。恐らく見つからないだろうと思っていたら、本棚の奥から王選手からもらっていた「気力」という色紙とともに出てきたのである。(2005年1月1日と書かれているが、翌年胃がんの手術を受けている。病気を知って、気力と書かれたのかどうかはわからない)。星野は書字がうまかったと言われているが、達筆な字体で「夢」と書かれている。ちなみに王選手の色紙も、浅草の福寿司の大澤さんを経由していただいたものである。「夢」と「気力」、二つの言葉とも今の自分を励ましてくれるものである。
星野が中日を退団してそのまま阪神に移籍したのは2002年で、翌年の2003年の2年目に、「血の入れ替え」によって選手を大きく入れ替え、開幕直後から首位を独走し、7月終了時点で2位に17.5ゲーム差の大差を付け、そのまま2位以下を全く寄せ付けずに18年ぶりのセ・リーグ優勝を飾ったのである。しかし、日本シリーズでは王監督率いるダイエーに3勝4敗で敗れ日本一を逃した。
星野は闘将と呼ばれ、花のある男ように思われていたが、どこか悲劇的で哀しみを漂わせるところもあった。
2003年当時、私はコテコテのトラキチで、前年まで「敵だと思っていた」星野がそのまま阪神の監督になったことに違和感を感じて馴染めないでいた。それでもどうにかして星野ファンになろうと思っていたら、ある週刊誌に次のような記事が載っていた。詳細は忘れてしまったが、星野は小さいころに父親に先立たれて、苦労しながら母親が二人の姉と共に育ててくれたのである。小学校4,5の頃に筋ジストロフィーの同級生がいたが、体の大きかった星野少年が毎日背負って学校まで通学していたという記事だった。当時私は筋ジス病棟を担当していたこともあって、一気に星野との距離感が縮まったことを憶えている。
また優勝の決まった9月15日は、その母親の告別式の日にあたり(13日に亡くなり、14日の中日戦の後で、名古屋から大阪・茨木市内の母の自宅へ車を飛ばし通夜に駆けつけた)、胴上げで宙に舞った。選手たちにはこのことは隠していたということだった。当時のスポ紙によると、胴上げの時には、目を真っ赤にした島野ヘッドコーチは、1997年に51歳で亡くなった扶沙子夫人の遺影も一緒に掲げられていたということである。
ヤフーで検索すると、13年前のある日に、次のように書いている。
我慢の岡田が夢つなぎ(2005年9月30日)
いつものように朝早く病院到着、するとまもなく当直の平田さんから院内電話が。「スワ、なんか事故でも?」と、構えて受話器に向かうと「先生、車のスモールがついてるそうですよ」ということ。「どうしてわかったの」と聞くと、「10病棟の看護師さんが電話してくれました」という。
「どうして忘れたのか」というと、昨夜の余韻が残っていたからであろう。ぼっとしていたのだ。電話はひっきりなしに来るし、パソコンを開くと「おめでとう」というメールが踊っている。冷静に考えれば、おめでたいのは私のオツムで、実質的にはなんらおめでたいことはないハズだ。阪神タイガースの株を買っていたら、と思えどもこれも後の祭り。ヒロシからは、「私が生きているうちには、もうないと思っていましたが・・・」とくる。確かにそれはそうだ、ヒロシが後20年生きているとは思えない。かくいう私も、過去の実績から推定すると、15年、18年振りだったと言うことは、次は20年後となる、生きているのは難しいかも、と思っていたのだから。このような「想定外の出来事」に、想定外の出費もかさみそうで、いささか戸惑っている。恒例の(今年も紅白のシーズンですね、まだ9月なのに)といわれれば、ここで男の沽券にかけても(だから化石?といわれそう)中止するわけには行かない(でも来年は優勝しても中止を宣言したい。イラン心配だが、と筋ジスの弱いウサギファンに言われそうだ)。紅白饅頭は、宛名書きを、黒猫ヤマトからユーパックへと2度も書きなおされた。ご愛顧の小田屋の提携先がユーパックに代わったのだという。箱のラベルは一昨年の「仙ちゃんに感謝、夢実現」から、「我慢の岡田で、夢つなぎ」に決定している。今日、家内が三越の小田屋に出向き、日曜日には出来上がる算段。でも岡田はアホだ、寛美だ、ホモだとののしられながら(先生も散々罵っていたじゃないですか、と言われそう)、よくここまで我慢した。選手起用も、終わってみれば我慢したことが吉と出ている。昨夜の優勝会見も、星野のような華はないけど、誠実に言葉を選んで好感の持てる内容だった。あれが彼の持ち味である。同じ持ち味でも、「日本をあきらめない」の民主の岡田は、ずっこけたのだから、世の中の事、先のことはわからない。ともあれ、今年も終わった。
あしたは、またまた恒例の、敏秀追悼霧島登山。これもそろそろ中止に、と思うのだけど、県外の暇な?連中が仕組んでくれる。何はともあれ、天気が良ければいいのだけど。