Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

年末年始(1)(2018/01/09) 

2017年から2018年への年末・年始、あっという間に過ぎ去った4日間でしたねえ。国立病院の時代と違って民間の南風病院は、暮れの30日までしっかりと仕事があります(30日は土曜日でしたけど)。それで実質的には、4日間の休みということになりますが。
 振り返ってみますと、大晦日から年始の3ヶ日、鹿児島市は運よく好天に恵まれ、風も弱く穏やかな年末、年始となりました。個人的にも、年末に帰省していた娘と芽生ちゃん、隼生君に、31日には婿の憲一君も加わり、正月一日は秀平一家(美往さんとタンゴ、レンゴ君)も合流して、賑やかな正月になりました。特段、大きなイベントも特記できるようなこともないでしたが、「何もないということが最も幸せなとき」といえるかもしれません。これ以上の贅沢はないと思う所です。このような正月がずっと続いて欲しいものですが、現実となるとそのようには行かないのが世の常です。明日のことは誰にもわかりません。
 経日的に振り返ってみますと・・・
 大晦日の31日、娘と孫は約束していた高校時代の友だちに会うということで、家内と二人で、珍しく年越しそばでも食べようということになりました。思いついた「ふく福 荒田本店」に行くことになり、市電沿いに車を鴨池方面に走らせました。荒田八幡を過ぎて、走行方向とは対面にある「ふく福」が見えましたが、店の前の仮店舗には年越しそばを求める人盛りができていました。まだ昼食時間には早かったためか、駐車場には少し空きがあるように見えました。そこで次の交差点で右折して、あわよくば左レーンに入ることを考えました。
 しばらく進んで騎射場交差点の信号が黄色になった時、対向車もなかったので、強引に右折しました(そのままUターンも考えたのですが、ここは思いとどまって正解)。うまく右折できて(この時に、ちらっと交差点の左の道路に停車していたパトカーに気づいたのですが)、そのまま道なりに走らせますと、私の車の後ろにパトカーがみえました。瞬間、「やられたな」と思いながら、そのまま進行して左折して狭い路地に入ってみました。するとそのパトカーもついてくるではありませんか。胸は高鳴りながらも赤色灯は点滅していないし、サイレンも鳴らしていないということは「大丈夫かもしれない」と思い直して、私は車を再度左折してみました。そうすると今度は後ろに着いて来ず、そのまま通り過ぎてしまいました。「やれやれ今回はセーフかな」と胸をなでおろすことでした。「大晦日に捕まってはたまらない」と思いながらも、間一髪のセーフだったように思います。皆さん、無理な運転は止めましょう。
 混雑した店内で年越しそばを食べて、正月の買い物に鴨池の「ンシムタ」に行き、そのまま帰宅しました。
 そしてのんびりとしながらテレビをつけますと、ドキュメンタリー番組「キタサンブラック 日本一への道~サブちゃんと男たちの挑戦~」の再放送をしていました。現役時代の北島三郎のど演歌を聞くようなことは紅白以外ではなかったのですが、この番組を観て、「さすがに一流となった人は違う」と再評価する気持ちになりました。北島は5年ほど前に実質的な歌手活動を引退していたのですが、キタサンブラックの頑張りに刺激を受けて、81歳になった今、再びテレビの前でも歌いたいと思い、新曲にも挑戦しているそうです。キタサンブラックといえば、有馬記念でのラストランを思い出しますが、この馬は北島が日高の牧場を視察して帰る時に、その目が「私を買ってください」と訴えているようで、引き返して手に入れた馬だと。当初は馬体も貧弱で、無名の馬だったそうですが、過酷な調教に耐えてみるみる逞しく成長していったということです。厳しい調教に耐えて日本一になった“叩き上げ”の馬で、そこが北海道の寒村から高校を卒業して上京し、7年の下積みでの流しを経て歌手となった自らの芸能人生と重ね合わせて、感動を呼ぶストーリーになっています。北島はこの馬を「神様がくれた宝物」と言ってかわいがってきたそうですが、有馬記念での優勝の後での祝勝会を武豊騎手や調教師等など裏方で支えてくれた人たちと祝っていましたが、まさに「祭りだ・・・」の唄が夜空に響き渡って、感動的なフィナーレでした。