Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

昭和という時代(鹿児島県医師会報、2018年1月号)(2018/01/05) 

11月7日に城山観光ホテルで挙行された鹿児島市医師会設立70年記念祝賀会に出席した。昭和22年に設立ということなので、私の過ごした歳月とピッタシ一致することになる。
 一昔前に「明治は遠くになりにけり」という言葉が流行ったことがあった。そして改元が2019年元旦となると、まさに「昭和は遠くになりにけり」という言葉が実感となってくる。この昭和という時代は戦争から敗戦、戦後復興、高度経済成長、バブルと63年間も続いたわけで、年号による歴代天皇の治世としては稀有な長さと激動の時代だった訳である。
 昭和を代表するものとして思い出すのは「蚊帳、焚き火、和式便所、ナイフ、原っぱ、紙芝居、駄菓子屋、ラジオ、縁側、箒(ほうき)とちりとり、ちゃぶ台、蠅取り紙、押し入れ、給料袋、そろばん、百科事典、御用聞き、ナポリ座」など羅列していくときりがない。しかし今や、ほとんどお目にかかることのないものばかりである。
 私にとっての昭和の思い出は、やはり「昭和歌謡」かも知れない。歌えないのに聴くのは好きだったが、歳をとるにつれて「懐メロ」は文字通り懐かしい気持ちにさせてくれる。歌謡曲は歌詞の内容に共感する部分が多く快哉したくなる。この時代は、ヒット曲はお年寄りから若者まで国民みんなが共有し、大げさにいえば「国民的歌謡曲」というものではなかっただろうか。
 小さいころによく覚えている歌に、「別れの一本杉」と「この世の花」がある。今でも時々ユーチューブで聴いているが、「別れの一本杉」は高野公男作詞、船村徹作曲、歌は春日八郎であった。この歌がつくられたのは小学4年生ぐらいの時だったかと思う。
 ラジオから聞こえてくる「泣けた泣けた こらえきれずに泣けたっけ あの娘と別れた哀しさに 山のかけすも鳴いていた 一本杉の石の地蔵さんのよ 村はずれ」という歌詞である。私の住んでいた田舎でも、村はずれに一本杉があり、思いを重ねながら聴いたものである。この歌は、若くして亡くなった高野と船村の友情物語としても有名で、船村が機会あるごとに紹介していた。高野はこの時代に、「田舎の時代が来る」と予言していたというからさすがである。27歳という若さで亡くなり、船村も後を追ってしまった。
 「この世の花」は作詞が西条八十、作曲が万城目正という大御所で、「あかく咲く花 青い花 この世に咲く花 数々 あれど 涙にぬれて 蕾のまゝに 散るは乙女の 初恋の花 」となる。意味不明な歌詞もあるが、それはどうでもいい。そういえば、亡くなった父も島倉千代子のファンだった。
 毎年の流行った歌の総決算が12月31日の紅白歌合戦である。こちらも国民的番組で、囲炉裏を囲み、ラジオから流れてくる歌を聴きながら、めったにお目にかかれないご馳走を食べて除夜の鐘を待ったものである。
 もうあの時代は二度と戻ってこない。