Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

健診模様(26)左官の世界(2018/02/21) 

自分の知らない世界のことを聞けるのは、実に楽しいものである。
 昭和22年4月生まれの日焼けした男性が、PETの結果説明の部屋に入って来られた。この日はキャンセルがあったということで、この人が最後だということである。
 健診者に会う前の事前のチェックで、血液検査を含めて画像検査、胃カメラなどに一つも異常はなかったので、雑談できる精神的、時間的余裕があった。
 「私と同じ年ですね、中学校はどこでしたか」と問いかける。「郡山中で、卒業してすぐ東京に働きに出ました」と言われる。その後の話を要約すると、昭和38年4月に上京、左官職人の親方の家に住み込みで働くようになった。かなり大きな羽振りの職人さんで、15番目の弟子として修行しながら、毎月6千円のお小遣いをもらっていた。女将さんが世話好きな良い人で、食事の世話からしつけまでしてもらうことができた。
 4年の年季が開けたところで、親方に盛大な師匠離れのお祝いをしてもらい、その後一年間は御礼奉公として働いた。6年を過ぎてからは一人前の職人として左官道具を担いで、どこの職場にでも出かけることができた。ただ師匠の名前を汚すような行いをしないようにと、気を引き締めて働いた。15年間東京で働いて、結婚して、親が病気になったのを機会に鹿児島に帰ってきた。
 「見ていますと、ずっと本を読んでおられましたが、お好きなんですか」と聞いてみた。「実は16歳の時に、本屋で初恋(島崎藤村の詩集)を読んでいたら、林檎という漢字が読めなかったので、隣の白髪の紳士に聞いてみました。「りんごと読むんだよ」と親切に教えてくれました。以来、本を手から離したことはなく、時間があったら読んでいます」と言う。
 「お子さんは?」と訊ねると、「女の子が二人います。男の子だったら左官にしたと思いますが、娘たちは東京で銀行とNTTに勤めています。自分が中卒でしたので高校や大学への憧れが強く、子供たちは大学まで進学させました。子どもたちから学生生活を聞くのが楽しみでした」。「私が55年間この仕事をやってきて思うのは、腕も大切ですがやはり人間性ですね。仲間とうまくやっていけない職人は大成できません」と言われる。
 世界は変わっても、事情は同じである。