「お相撲」の話(前)(2018/03/14)
今日はお相撲の話である。
昭和20年代の話に遡る。私の生まれた薩摩半島南端の小さな村では、毎年お盆の頃だっただろうか、村の広場で相撲大会が盛大に開かれていた。子供相撲から大人まで、年齢順に取り組みが組まれ、村中の人が子供から大人まで集まり、大声で声援を送ったものである。当時私は小学校の部に出場していたが、成績は勝ったり負けたりだったかと思う。それでもまわしを付けて、それなりの格好で土俵に上がったものである。
そんなわけで、大相撲の話題となると、かなりマニアックなものになる。
小学校の4年の時、1956年1月場所、郷土出身力士の鶴ヶ嶺が14勝1敗で、千秋楽の優勝決定戦で鏡里に敗れた取り組みは今でもよく覚えている。その頃はテレビはなく、ラジオの前にみんなが釘付けになり、必死に応援したものである。この頃の相撲人気は圧倒的だった。
鶴ヶ嶺は小型だったがもろ差し名人で、左を差すと観客の期待通りに右に巻き替えてもろ差し、両肘を張ってがぶり寄りを得意にしていた。今の人は鶴ヶ嶺と言っても誰も知らないかもしれないが、逆鉾、寺尾、鶴嶺山の三兄弟の父親である。「鹿児島県姶良郡加治木町出身井筒部屋」という呼び出しの「触れ」を聞くと、誇りに感じたものである。
相撲の話になったのは、3月6日にレンブラントホテルで開かれた鹿児島県公的病院協議会の研修会と鹿児島大学臨床教授会との懇談会で、前日本相撲協会の横綱審議委員会委員長の守屋秀繁先生(千葉大学名誉教授)の「講談」を聴く機会があったからである。私は先にも触れたように相撲オタクの一人で、勝敗表などを自分でつけて楽しんでいた時代もあったので、この夜の「講談」はとりわけ楽しかった。
さてこの公的病院会、いつもは固い内容の講演になるのが常であるが、今回は会長の前之原先生と顧問の野村先生の粋な計らいで実現したのである。
守屋先生は開口一番、「新燃岳の爆発で鹿児島空港に降りれなくなって、福岡空港に回されましてねえ。もうそこから羽田に引き返そうかと思ったんですが、野村先生と明日ゴルフができるのが楽しみで、新幹線を乗り継いできました。4時間ぐらい覚悟していましたが、一時間半で来れるんですね。早くなりました」と、丸テーブルに座った先生方の笑いを取る。77歳ということだったが、小柄でソフトな語り口だった。「私たちはインターンの最後の年で、野村先生とは昔の東京第一病院で一緒だったんですね。以来、3回ほどしか会っていませんが、インターン時代の繋がりは強いんです」と言われる。そのような前置きがあって、本題に入られた。
昭和20年代の話に遡る。私の生まれた薩摩半島南端の小さな村では、毎年お盆の頃だっただろうか、村の広場で相撲大会が盛大に開かれていた。子供相撲から大人まで、年齢順に取り組みが組まれ、村中の人が子供から大人まで集まり、大声で声援を送ったものである。当時私は小学校の部に出場していたが、成績は勝ったり負けたりだったかと思う。それでもまわしを付けて、それなりの格好で土俵に上がったものである。
そんなわけで、大相撲の話題となると、かなりマニアックなものになる。
小学校の4年の時、1956年1月場所、郷土出身力士の鶴ヶ嶺が14勝1敗で、千秋楽の優勝決定戦で鏡里に敗れた取り組みは今でもよく覚えている。その頃はテレビはなく、ラジオの前にみんなが釘付けになり、必死に応援したものである。この頃の相撲人気は圧倒的だった。
鶴ヶ嶺は小型だったがもろ差し名人で、左を差すと観客の期待通りに右に巻き替えてもろ差し、両肘を張ってがぶり寄りを得意にしていた。今の人は鶴ヶ嶺と言っても誰も知らないかもしれないが、逆鉾、寺尾、鶴嶺山の三兄弟の父親である。「鹿児島県姶良郡加治木町出身井筒部屋」という呼び出しの「触れ」を聞くと、誇りに感じたものである。
相撲の話になったのは、3月6日にレンブラントホテルで開かれた鹿児島県公的病院協議会の研修会と鹿児島大学臨床教授会との懇談会で、前日本相撲協会の横綱審議委員会委員長の守屋秀繁先生(千葉大学名誉教授)の「講談」を聴く機会があったからである。私は先にも触れたように相撲オタクの一人で、勝敗表などを自分でつけて楽しんでいた時代もあったので、この夜の「講談」はとりわけ楽しかった。
さてこの公的病院会、いつもは固い内容の講演になるのが常であるが、今回は会長の前之原先生と顧問の野村先生の粋な計らいで実現したのである。
守屋先生は開口一番、「新燃岳の爆発で鹿児島空港に降りれなくなって、福岡空港に回されましてねえ。もうそこから羽田に引き返そうかと思ったんですが、野村先生と明日ゴルフができるのが楽しみで、新幹線を乗り継いできました。4時間ぐらい覚悟していましたが、一時間半で来れるんですね。早くなりました」と、丸テーブルに座った先生方の笑いを取る。77歳ということだったが、小柄でソフトな語り口だった。「私たちはインターンの最後の年で、野村先生とは昔の東京第一病院で一緒だったんですね。以来、3回ほどしか会っていませんが、インターン時代の繋がりは強いんです」と言われる。そのような前置きがあって、本題に入られた。
