Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

日本内科学会講演会(4)(2018/05/01) 

翌日の土曜日はうす曇りで、予報では雨は夕方からのようである。そこで三十三間堂に行こうと考えた。ホテル前の塩小路通をひたすら東に歩くと、30分ほどで三十三間堂に着くことができた(この後の項は、ネットとパンフレットを参考にした)。
 三十三間堂は平安時代に院政を行った人物として有名な後白河上皇によって、御所に造営されたのが始まりだという。三十三間堂という名称の由来は本堂の柱の間の数が、33本だからといわれている。本尊は千手観音で、お堂には1001体の仏像が実に整然と並んでいる。朝早かったためか観光客も少なく、ゆっくりと鑑賞することができた。真横から仏像を眺めると120メートル向こうまで一直線に見渡せる。1001体もの仏像の一つ一つの顔が異なった表情をしていることにも驚く。漢の始皇帝の造営した兵馬俑のようである。
 お堂を出て通りを隔てて、向かい側に国立京都博物館が見える。煉瓦造平屋建てのフレンチルネサンス様式の歴史を感じさせる堂々とした建物であるが、現在は耐震工事のために閉鎖中だという。門の前に30人ほど整然と並んでおり、別館で「池大雅」企画展が開催されているというので、私もその列に並んだ。
 入場時に手渡されたパンフレットには、「大雅の初期から晩年にいたる代表作を一堂に集め、その画業の全体像をご紹介します。あわせて、その人となりや幅広い交友関係を示す資料を通して、当時から愛された人間大雅の魅力に迫ります。さらに、大雅が日本各地を訪ねた「旅の画家」であることをふまえ、彼の旅が絵画制作に果たした役割についても検証します」と書かれている。
 大雅は、京都銀座の下級役人だった父のもとに生まれた。4歳の時に父を亡くし、7歳で書を学び始めるとただちにその才能を発揮した。15歳になった大雅は、扇屋を開いて生計を立てるようになる。中国から舶載された画譜などを参考に、扇に絵を描いて売っていた。そんな10代の大雅を支えたのは、多くの人々との出会いであった。大和郡山藩の重臣だった柳沢淇園は早くから大雅の才能を見抜き、物心両面にわたり支援する。
 大雅は、多くの旅を重ねた画家で、26歳の時、江戸に遊んだ大雅は、そこから塩竈、松島にまで足を延ばし、その美しい景色に目を奪われる。翌年には北陸地方を遊歴したほか、20歳代後半から30歳代にかけて、伊勢や出雲など各地を旅している。
 大雅の絵画芸術は、40歳頃に完成された自己の様式へと到達する。伸びやかな筆線、デリケートな色彩の扱い、確かな画面構成力など、大雅のキャリアにおいて最も魅力にあふれるのが40歳代以降の時期であり、国宝・重要文化財に指定される作品のほとんどがこの時期に集中している。
 帰りは往路同様、リムジンバスで大阪伊丹空港に、そこからANA機で帰ることになった。ところが鹿児島空港周辺の天気が寒冷前線の通過で荒れ模様となり、条件付き飛行と報じられた。無事に着陸できることを祈って座席に着いたが、私は17Aと窓側だったので外の景色をよく見ることができた。ほとんど雲中の飛行だったが、鹿児島空港付近では厚い雲で、外の景色は皆目見えなかった。着陸できるか気をもんだが、滑走路がわずかに見えて、どうにか着陸できた。ちなみに17Cは県立鹿屋病院の日高院長で、往路は私は16Aで、日高先生は16Cだった。B席は往路、復路とも空席だったので隣りあわせということになる。  
 不思議な偶然もあるものである。