Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

歴史の街(1)(2018/06/21) 

今や鹿児島は全県挙げて、そしてNHKの強い後押しも受けて「西郷どん」ブームの真っただ中にある。ブームというものはいつか雲散霧消するのでブームと言われるわけだが、「篤姫」以来の歴史ブームに沸いている。ただ大河ドラマの視聴率は篤姫と比較すると全国的には高くないようで、鹿児島弁の難解さや歴史に立脚しない安直な構成に難があるのだろうか。
 さてその西郷であるが、正直なところ個人的には鹿児島生まれの鹿児島育ちにも拘わらず、さほど「西郷崇拝者」というわけではなかった。亡くなられた恩師の井形先生(東京から赴任)は、「鹿児島では西郷さんと焼酎の悪口は言ってはならないと教えられてきました」というようなことを、笑いながら口にされていたものである。さように、鹿児島では西郷さんは今でも圧倒的な人気を誇っている。
 「棺を蓋いて事定まる」という言葉がある。死後初めてその人の真価が決定するという意味である。西郷さんの場合、亡くなって140年以上が経つというのに、さまざまな見方ができるようである。
 今回あらためていろいろな書物を読んだり、テレビの特集番組を観たりしていると、私の考えていた西郷像は粗野で「武の人」という理解の上に立っていたが、本当はそうではなかったようである。毎日、通勤途上で陸軍大将の服を着た銅像を見上げたり、また上野公園の浴衣姿の犬を連れた西郷のイメージに引きずられてしまっていたのかも知れない。
 西郷は自ら日記は書かなかったが、多くの漢詩や揮毫を書き残している。私は漢詩に対する専門的な素養は持ち合わせていないが、専門家の間でも高く評価されているそうである。西郷が内外の古典的な書籍に精通し、極めて高い教養人でもあったことを初めて知ることになった。そして幕末の動乱の時代、2度にわたる過酷な遠島処分、明治維新後の複雑で困難な諸問題やその改革、最後には不可解な西南戦争など、普通の人には経験できないような体験を経て到達した境地が、あの「敬天愛人」という4文字に凝縮されていたというのである。特に遠島処分は都合5年近くにも及ぶわけで、よっぽどの精神力がなければ回生できなかったかと思う。帰還していわゆるリハビリする時間もないまま薩長同盟、大政奉還、戊辰の役と奔走し、明治維新にいたるわけで、その超人的活躍は余人の及ばないところである。
 (6月5日付の日経新聞の文化欄に、郷土史研究家の箕輪優氏が「西郷ら奄美流刑の実像」という一文を寄稿している。
 ・・・実は名越と対照的なのが西郷だった。西郷は名越の10年後に奄美に流刑となるが、当時の書簡を読むと、物語で描かれているのとは異なる実像がうかがえる。島民をさげすみ、娘たちの手の甲のいれずみをばかにし、「もっとまともな家に住ませろ」と訴えた。後年、明治政府の重鎮となった時に「奄美の砂糖を困窮する鹿児島士族の救済に使えばよい」と説いた。島民搾取の現実を目のあたりにしながらこういう考えだったのを知ると、私は西郷を英雄と単純に称える気持ちに慣れない。・・・世の中にはいろんな考え方があり、見る角度によって評価も分れるという一例である)。