Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

時空を超えて(中)(2018/07/31) 

その後、小川内さんが病気になってから自ら造られたという大きな応接台を囲んで、診療所のスタッフも一緒に昔話に花が咲いた。亡くなられて25年ということは、出会ってから35年以上と言うことになる。この部屋で体外式陰圧人工呼吸器を着けていた。「夏はいいのですけど、冬は寒いのですよ」と奥さんがあの頃を思い出しながらしんみりと話されていた。確かにあの呼吸器は冬は大変だった。息子さんは週に3日ほどここで泊って、農作業に従事されているという。「猪やサルとの知恵比べですよ」と自嘲気味に話されるが、野菜やコメが根こそぎ被害に遭っているという。天敵の人が少なくなると、動物が山奥から人里に下りてくるのはどこでも同じようである。
 ところで小川内さんは、平成6年に74歳で亡くなられた。私は10年ちょっとの関わりだったが、いろいろな人生哲学を教えてもらった。「もし五人の人を生き返らせてくれるという望みが叶えられる」としたら、「もう一度会ってみたい人」の一人である。ご自身も、「私はALSという病気になったので、先生はじめ南九州病院の多くのスタッフに会うことができた」とよく話されていたものである。
 私は1984年に医局人事で南九州病院に異動となったが、その時に外来で出会った。大正10年生まれだったので、当時63歳ということになる。陸軍中野学校を卒業し、戦時中はその分野で活躍していたそうだが、終戦と同時にシベリアに4年間抑留された。故郷の木津志に帰って、町会議員を20年間にわたってされていたときに、ALSと診断された。大学病院で同じ病気の人を見て、自らの行く末を案じて自殺を考えたこともあったそうだが、残される妻(ブロイラーの飼育を大がかりに始めたばかりだった)や100歳を超えた父のことを考えたら死にきれずに、生き抜こうと決心したということを聞いた。
 症状が進まない頃は自ら運転して外来に通院されていたが、後半の数年は病院から20キロほど離れた木津志部落の田んぼの中の一軒家まで、私が車を運転して、在宅医療と称して看護師など数人で出かけたものである。病院として在宅医療を組織的に始めるのは数年してからで、それまでは自分の車で業務の合間に訪問していた。姶良町にもこんなに山奥の村があることをその時に初めて知ったが、裏山と田んぼに囲まれた一軒家だった。在宅をやっていたメンバーみんなで押しかけては、広い庭で焼肉パーティーや家の前にひろがる水田のホタルを見る会などを企画したことも懐かしい思い出である。在宅ケアの素晴らしさやALSを生きることの悲喜交々を自らの体験も交えて教えてもらい、私がALSのケアシステムの研究や在宅人工呼吸管理を行う上で、多くの勉強をさせてもらった。
 さて当院は僻地診療拠点病院の任務の一つとして、姶良市立北山診療所での診療を請け負っている。私は今まで診療所には一度も出かけたことはなかったが、今回「小川内さんのご自宅を訪問できたら幸い」と、7月の第4水曜日を担当させてもらうことになった。