Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

小柳正之先生(後)(2018/08/31) 

著者は「花筺」の言葉の美しさに魅かれるという。それは心の中にある母の温もりに通じるものを感じるからなのだそうだ。美しい言葉はあたたかい。そのあたたかさを誰かに告げたくなり、また誰かに奉げたくなるのが俳句なのかもしれない。
   実に的確で心のこもった書評であるが、花筺は「はながたみ」と読み、「花かご」のことのようである。
   私は自分で俳句を詠んだこともないし、全くの門外漢である。
   先日、MBC開発の陶山社長(元『陶山賢治の時の風』を担当しており、俳句手帳を持ち歩いている)、長倉さん(僧侶)と3人で飲む機会があった時、陶山さんから俳句を勧められたが、ハードルが高く感じる。
   先生の俳句の中から印象に残った句を紹介したい。
   先ず、扉を開けて最初の句
   数へ日の 居留守を神も 許し給ふ
 「数え日」は俳句の季語で、12月20日を過ぎたころから年末までの「10日間」くらいのことを指す言葉だそうだ。察するに弁護士稼業の身、それでなくても年末の忙しいときに依頼人でも来られたのだろうか、なんとなくその場の雰囲気が伝わってきて、思わずほほえましくも思える句である。江戸落語の世界であれば、貧乏長屋で年の瀬の借金の取り立てに、居留守を使う店子の噺になろうが、先生の場合は些事から逃れたかっただけのことだろう。
   「神も許し給ふ」という最後の音節で思い出されるのは、筋ジス病棟に入院していた岩崎さんの短歌、「『治るよね』問いくる子等の澄める眼に、うんと言う嘘神許されよ」である。
   次の句は「杉山に 魁夷の雪の 降りにけり」である。
   どこの杉山かはわからないが、雪深い深山の風景が、そのまま衒うことなく描かれている。本当は関係ないことかもしれないが、魁夷つながりで、東山魁夷の「北山初雪」や「雪原譜」など、酷寒の中の生命の温もりを描いた冬景色を思い出す。そういえば今年は秋にかけて、生誕110年記念展覧会が京都国立近代美術館と国立新美術館で開催されるという。
   母の手の 温もり憶ふ さくらかな
 きっと先生のお人柄の、よく良く出ている句かと思う。憶ふであるので、この句を読まれたときには、母上はこの世にいないのだと察せられる。満開の桜を見て、亡き母親をそして幼少期に手をつないでもらって登校した入学式でも思い出されたのだろうか。
   たった三句紹介しただけであるが、先生の句は私のような素人にもわかりやすく、自然な形でその情景を思い描かせてくれる。そして、どこまでも静謐で温かく、この騒々しい時代に、ざわついた心を静かにさせてくれる鎮静剤の効果もある。