Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

それぞれの戦争(後)(2018/09/07) 

私の父も戦っただろう日本軍によるルソン島での戦いは、壮絶を極めるものだったらしい。昭和20年1月6日から終戦まで、山下奉文陸軍大将率いる日本軍と、ダグラス・マッカーサー元帥率いる米軍との間で繰り広げられた戦いである。日本軍は本土防衛の態勢整備までの時間稼ぎを目的に持久戦を展開した。米軍は3月に首都マニラを制圧。補給路を断たれた日本軍は餓死者が相次ぎ、戦死・戦病死者は21万人を超えたとされる。
   帰還したある兵士のひとりは、当時の状況を次のように綴っている(インターネットから)。 
     大半がジャングルのルソン島の日本軍は、食糧の補給は完全に途絶えて餓死者が続出し、マラリアや赤痢にかかる者が続出した。部隊としての統制は乱れ、小部隊ごとに山中に散開して生活していた。降伏は固く禁じられていたため、伝染病にかかった者はそのまま死ぬか自決し、衰弱した日本兵は抗日ゲリラや現地民族に襲撃され消耗していった。飢えた兵士は食糧を求めて村や現地人を襲い、戦争どころではなくなった。兵士の間で台湾までたどり着けば助かると信じられていたために、筏を作成したり、泳いで台湾まで行こうとするものまでいた。
   父は昭和49年に61歳の時、くも膜下出血で急逝した。
   終戦直後、多くの兵士が帰還する中で、父は帰還が遅れて随分心配したということを母から聞いたことがある。翻って考えてみれば、父の帰還がなければ私と弟は、この世にいないことになる。
   父はもともと物静かで寡黙な性格だったらしいが、戦争から帰還してその性格も少し変わったようなことを聞いたことがある。戦場のことについては一切口にしなかった。もともと家で気安く話すようなことはなかったが、戦争については一切口にしなかった。きっと想像を絶するような苦難の連続で、言葉にすることもできなかったのではないだろうか。戦争に関する物も何も残されていない。
   おそらく私の父も悲惨きわまる体験をしたものと思われる。戦後、「同期の桜」ということで歓談する光景を見聞きするが、そのような人は比較的恵まれた戦争体験のあった人たちなのだろう。
   私の家の小さな仏壇には、父の遺影が飾られている。どことなく寂しげに写っているが、きっとこのような戦争体験も微妙に関係していたのではなかろうかと、今思うことである。
   今後、我々は子どもや孫のためにも、戦争に向かうような動きには厳しくチェックして行かなければならないと思うことである。始まってからでは遅い。