留学の思い出(前)(2018/12/25)
畏友の小長谷正明先生から「Merry Maryland留学記」が送られてきた。久留米に向かう新幹線(幼稚園の孫、タンゴ君のクリスマス発表会)の中で、一気呵成に読み終えてしまった。平成30年12月3日発行で、著者欄には国立病院機構鈴鹿病院名誉院長室と書かれている。そして末尾の著者履歴を読むと、私とかなり重複していることに驚いてしまう。
先生は1949年の千葉県銚子市の生まれで、1975年に名古屋大学医学部を卒業され、1979年に国立療養所鈴鹿病院内科医員となっている。そして奈良医科大学神経内科の時の1985年、メリーランド大学神経内科に2年間留学され、帰国後の1990年に鈴鹿病院神経内科医長に、2002年に院長、2017年に名誉院長と記されている。また特記すべきことは、神経学の研究者としての数々の業績とともに、岩波新書から2冊の本を出版されるなど医学関連図書の著述家としても有名である。
さて先生との比較を試みると、私は先生より2年早い1947年の生まれで、1972年に鹿児島大学医学部卒業後、1976年に国立療養所南九州病院に一年間だけ医員として働いている。そして小長谷先生より5年前の1980年から3年間メイヨー・クリニックに留学し、帰国後の1984年に南九州病院神経内科医長に、1991年に副院長、1998年に院長になっている。
先生は私と同じく団塊の世代の生まれであり、医学部卒業後の若い時代に国立療養所(筋ジスや重心病棟がある)で一年間働き、米国留学後しばらくして古巣の国立療養所に医長として出戻り、そして同病院の院長になっている。私が3年早く院長になっているので、国立病院時代は院長協議会やさまざまな研究班ではご一緒することも多かった。
先生の留学記を読むと、留学中の出来事を実に細かいところまで触れておられてびっくりする。どうしてこのようなことができたのだろうかといぶかっていたら、その秘密を次のように綴っている。
「はじめに」にあたる「Merry Maryland」によると、「当初は携えていった400字詰め原稿用紙に書いていたが、一時帰国した時に、大枚はたいき、売りだれたばかりのワープロを大事に抱えてボルティモアに戻った。それからは“ワープロの前の三味線弾き”とつぶやきつつ、何かにつけて文章を練り、キイを叩くようになった。一瞬の感動を心の目を通して記録していくことは、即興のピアノを弾き、絵筆を執るのと同じことだろうと」。
私の場合、5年ほど留学の時期が早かったということもあって、まだワープロなるものがなかった。もともと日記を書く習慣もなかったので、当時の様子を記したりすることはなかった。今、当時のことを思い出そうとするが、細部となるとほとんど忘れてしまっている。
私も留学するときには、2歳半の男の子と10ヶ月の女の子を連れて行った。留学先がミネソタ州のロチェスターという中西部の田舎町で、冬の寒さを除けば、実に住みやすい不思議なところだった。人口は10万にも満たないのに立派なホテルが立ち並び、国際空港まで完備していた。それもひとえにメーヨー・クリニックの存在によるもので、ロチェスターという街そのものがクリニックの城下町だった訳である。
先生は1949年の千葉県銚子市の生まれで、1975年に名古屋大学医学部を卒業され、1979年に国立療養所鈴鹿病院内科医員となっている。そして奈良医科大学神経内科の時の1985年、メリーランド大学神経内科に2年間留学され、帰国後の1990年に鈴鹿病院神経内科医長に、2002年に院長、2017年に名誉院長と記されている。また特記すべきことは、神経学の研究者としての数々の業績とともに、岩波新書から2冊の本を出版されるなど医学関連図書の著述家としても有名である。
さて先生との比較を試みると、私は先生より2年早い1947年の生まれで、1972年に鹿児島大学医学部卒業後、1976年に国立療養所南九州病院に一年間だけ医員として働いている。そして小長谷先生より5年前の1980年から3年間メイヨー・クリニックに留学し、帰国後の1984年に南九州病院神経内科医長に、1991年に副院長、1998年に院長になっている。
先生は私と同じく団塊の世代の生まれであり、医学部卒業後の若い時代に国立療養所(筋ジスや重心病棟がある)で一年間働き、米国留学後しばらくして古巣の国立療養所に医長として出戻り、そして同病院の院長になっている。私が3年早く院長になっているので、国立病院時代は院長協議会やさまざまな研究班ではご一緒することも多かった。
先生の留学記を読むと、留学中の出来事を実に細かいところまで触れておられてびっくりする。どうしてこのようなことができたのだろうかといぶかっていたら、その秘密を次のように綴っている。
「はじめに」にあたる「Merry Maryland」によると、「当初は携えていった400字詰め原稿用紙に書いていたが、一時帰国した時に、大枚はたいき、売りだれたばかりのワープロを大事に抱えてボルティモアに戻った。それからは“ワープロの前の三味線弾き”とつぶやきつつ、何かにつけて文章を練り、キイを叩くようになった。一瞬の感動を心の目を通して記録していくことは、即興のピアノを弾き、絵筆を執るのと同じことだろうと」。
私の場合、5年ほど留学の時期が早かったということもあって、まだワープロなるものがなかった。もともと日記を書く習慣もなかったので、当時の様子を記したりすることはなかった。今、当時のことを思い出そうとするが、細部となるとほとんど忘れてしまっている。
私も留学するときには、2歳半の男の子と10ヶ月の女の子を連れて行った。留学先がミネソタ州のロチェスターという中西部の田舎町で、冬の寒さを除けば、実に住みやすい不思議なところだった。人口は10万にも満たないのに立派なホテルが立ち並び、国際空港まで完備していた。それもひとえにメーヨー・クリニックの存在によるもので、ロチェスターという街そのものがクリニックの城下町だった訳である。
