ドクターズマガジンの思い出(前)(2018/12/11)
土曜日の早朝、いつものように院長室で、その場足踏みしながらNHKテレビの「小さな旅」を観ていたとき、ソファーの上に無造作に転がっているDOCTER’S MAGAZINEドクターズマガジン(2010年1月号)の(故)金澤一郎先生の肖像写真が目にとまった。かねて部屋をきれいに整理していないことの「効用」のようなものである。先生はふくよかで穏やかな笑みを浮かべられておられるが、今はこの世にはおられない。
懐かしい思いとともにページを開くと、扉の裏のオピニオンは、私が「一生懸命にその日を生きる」というタイトルの私の一文である。当時編集発行人だった中村敬彦さんと副編集長の及川佐知枝さんに頼まれて書いたものだろうが、かねて尊敬していた金澤先生と同じ号に掲載されているとは全くのうれしい偶然である。
先生は東京大学医学部を卒業後(ドクターの肖像を読むと、絵にかいたような順風満帆というわけではなかったようで、一浪して理Ⅱから進学試験を経て理Ⅲに替ったようである。そのあたりが、人間味のあった人柄と関係しているのかも知れない)、英国ケンブリッジ大学に留学、筑波大学教授や東京大学教授を歴任、国立精神・神経センター総長、日本学術会議会長など、アカディミズムの頂点に立たれている。また美智子皇后が声が出ない病の時の主治医となり、その後も皇后の信頼が厚く、宮内庁皇室医務主管を長きにわたり務めておられる。
私との接点は、学会活動などで多少のご縁があったが、先生が精神・神経センターの院長時代に医療安全の講演を頼まれて食事をごちそうになったりしたことがあった。最も大きな接点は先生が厚労省の難病対策委員会の委員長の時に、私が副委員長として先生を補佐する立場になってからである。新難病法の成立に向けて、その理念を「社会参加と共生社会の実現」という点で一致したが、その法律の制定に向けてまい進されていた時に、突然のがんが発覚して2年ほどの闘病の末、亡くなられた。
「・・最後になりましたが、難病の新しい時代がはじまりました。先生のお蔭で新しいスタートを切ることができました。心からお礼を申し上げます」という手紙を2015年9月25日にもらっている。また先生とは、法務省の有識者会議の時にも先生が委員長で、私も委員の一人として参加したこともあった。
マガジンに戻ると、目次の上の欄には、(故)日高君(筋ジスで長年入院生活を送っていたが、数年前に死亡)のグラフィックの写真とともに、短歌も載せられている。黒潮のしぶきを上ぐる故郷の岬は強き北風の吹く「日高和俊歌集 花のちから」。この歌は故郷の佐多岬と、漁師だった父母が小舟で漁をしている姿を思い浮かべながら詠んだものだろう。この項は、及川さんに頼んで毎号掲載してもらっていた。
懐かしい思いとともにページを開くと、扉の裏のオピニオンは、私が「一生懸命にその日を生きる」というタイトルの私の一文である。当時編集発行人だった中村敬彦さんと副編集長の及川佐知枝さんに頼まれて書いたものだろうが、かねて尊敬していた金澤先生と同じ号に掲載されているとは全くのうれしい偶然である。
先生は東京大学医学部を卒業後(ドクターの肖像を読むと、絵にかいたような順風満帆というわけではなかったようで、一浪して理Ⅱから進学試験を経て理Ⅲに替ったようである。そのあたりが、人間味のあった人柄と関係しているのかも知れない)、英国ケンブリッジ大学に留学、筑波大学教授や東京大学教授を歴任、国立精神・神経センター総長、日本学術会議会長など、アカディミズムの頂点に立たれている。また美智子皇后が声が出ない病の時の主治医となり、その後も皇后の信頼が厚く、宮内庁皇室医務主管を長きにわたり務めておられる。
私との接点は、学会活動などで多少のご縁があったが、先生が精神・神経センターの院長時代に医療安全の講演を頼まれて食事をごちそうになったりしたことがあった。最も大きな接点は先生が厚労省の難病対策委員会の委員長の時に、私が副委員長として先生を補佐する立場になってからである。新難病法の成立に向けて、その理念を「社会参加と共生社会の実現」という点で一致したが、その法律の制定に向けてまい進されていた時に、突然のがんが発覚して2年ほどの闘病の末、亡くなられた。
「・・最後になりましたが、難病の新しい時代がはじまりました。先生のお蔭で新しいスタートを切ることができました。心からお礼を申し上げます」という手紙を2015年9月25日にもらっている。また先生とは、法務省の有識者会議の時にも先生が委員長で、私も委員の一人として参加したこともあった。
マガジンに戻ると、目次の上の欄には、(故)日高君(筋ジスで長年入院生活を送っていたが、数年前に死亡)のグラフィックの写真とともに、短歌も載せられている。黒潮のしぶきを上ぐる故郷の岬は強き北風の吹く「日高和俊歌集 花のちから」。この歌は故郷の佐多岬と、漁師だった父母が小舟で漁をしている姿を思い浮かべながら詠んだものだろう。この項は、及川さんに頼んで毎号掲載してもらっていた。
