Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

宇沢弘文(4)(2019/01/25) 

――リビング・ウィルは残されていなかったのですか。
 はい。父はお酒が大好きで、天命に任せていたのでしょう。母が「飢え死にさせたくない」と言ったこともあって、胃瘻も入れました。「もうダメだ」と思っても、受け入れられず、「分かっているけど……」と葛藤していたのです。脳梗塞で発語はできなくなりましたが、意思の疎通はできていました。娘が「治療したい」と言うからと、半ば諦めて受け入れていた感じでした。
 でも私はそのときは、「これがベストの対応だ」と思っていたのです。でも、その後、大井玄先生(編集部注:東京大学名誉教授)などとお会いし、平穏死のことを知るようになりました。余計な食事や水分を摂取しなければ、誤嚥性肺炎などにはならず、最期は眠るように枯れるように、でも苦しまずにお亡くなりになる……。
 死は平等で、誰にでも訪れます。死について考える、自分がどう逝きたいか、より良い死を考えた時に、重要になってくるのが、その手前のケアや生き方自体です。死を考えることによって、逆に生が、生き生きとしてきます。
 ――3つ目の「内科診断学の再評価」ですが、その必要性を考えるようになったきっかけは。
 患者さんのそばに寄り添うことが医療者の使命と感じています。さまざまな技術の発達はそれを手助けしてくれるものです。基本は患者さんの話を聞き、診察すること。ローレンス・ティアニー先生(米カリフォルニア大学 サンフランシスコ校内科学教授)が来日講演した際、ある研修医が診断に戸惑った患者さんについて、「こんな検査を行い、こう診断をしたのだけど、自分ができたことは他にあったのだろうか」と尋ねたところ、ティアニー先生は、「そうだね。検査は十分だったね。あと、できたことは、30分、彼の横に座って、彼の人生について聞くことかな」と答えたというエピソードを読んだのです。病気から一歩離れた時に、われわれ医療者は患者さんを人として診ているか、話を聞いてその患者さんの人生の物語を考え、いかに診察、治療をするかが、問われています。
 ――先生は東京慈恵会医科大学のご卒業ですが、「病気を診ずして、病人を診よ」が大学の理念です。
 しかし、私たちが学生の頃は、「病気を知らずして、病人を診るな」でした(笑)。
 ――先生は、日本医師会の「医師会将来ビジョン委員会」の委員を務めておられます。
 来春発表予定の提言には、「社会的共通資本」という言葉が恐らく入ると思います。「社会的共通資本としての医療」という価値観を共有することで、医療に対して新たな信頼を得ることが必要な時代になっています。
 医師法第1条に、「医師は、医療及び保健指導を掌ることによって公衆衛生の向上および増進に寄与し、もって国民の健康な生活を確保するものとする」とあります。その原点に立ち、病気を治すだけではなく、その人が人生を全うするために支援する、その人の物語りに寄り添う医療を展開するためにも、「社会的共通資本としての医療」という考え方が必要と委員会で主張しています。