Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

西郷(せご)どん(2019/01/21) 

昨年は西郷さんの一年だった。大河ドラマ「西郷(せご)どん」が12月16日の最終回で一年間の幕を閉じた。主人公・西郷隆盛(鈴木さん)の“最期”の描かれ方、城山での最終決戦で腹と足を打たれ、瀕死の状態になった西郷、そして大久保の暗殺(紀尾井坂の変)や回想シーン、息も絶え絶え、空を見上げると「もう、ここらでよか」と言い残して最期を遂げる。
 この終焉の地は南風病院から歩いて5,6分の所にある。西郷洞窟からは岩崎谷(私が小さいころはここに岩崎谷荘という旅館があり、広い日本庭園に本館、茶室や離れのある由緒ある宿で、昭和天皇、平成天皇ご夫妻なども投宿された。現在は跡形もなくなって、玉里へのトンネルに変わっている)に10分ほど下ったところで、今は日豊本線を挟んで国立病院機構鹿児島医療センター(旧私学校跡)にほぼ隣接している。
 史実では、1877年(明治10年)9月24日に政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷隆盛・桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら40余名は洞窟前に整列し、岩崎口に進撃した。途中で西郷隆盛が被弾し、島津応吉久能邸門前にて別府晋介の介錯で自決する。跪いて西郷の自決を見届けた桐野らはさらに進撃し、岩崎口で交戦し相次いで銃弾に貫かれ刺し違え、或は自刃したとなっている。
 西南戦争の位置づけについては諸説が交錯するが、結果的には特権階級であった士族と、その旧態依然とした体制を改革しようとする政府(農民で構成されていた官軍)との戦いであり、西郷はその辺りの時代の変化をすべて飲み込んで出兵し、最期には自決という道を選んだのではないだろうか。西南戦争は歴史の流れを変える大きな節目となった戦いだったことは明らかである。
 西南戦争に参加したのは多くは20代の若者だったということだが、死を覚悟しながら故郷の薩摩を目指して、これほどの短時間に九州山地のけもの道を、おそらく巨体の西郷を担ぎながら走破したことになる。鹿児島まで15日間を要したということだが、故郷の地を踏むことのできた兵は三百人をわずかに超えるだけになっていたという。客観的には実りない逃避行にも思えるが、師を慕い故郷への強い思いが不可能を可能にしたのだろう。
 この辺りの模様は「西郷隆盛の道-失われゆく風景を探して-」という題名の本に書かれている。イギリス人のアラン・ブース(柴田京子訳)が1993年に書いたもので、ブースは1946年にロンドンで生まれて能に興味を持ち、1970年に来日している。一年のつもりが1992年には永住権まで取得しているのに、翌年1月にがんのために46歳の若さで亡くなっている。
 この本は、延岡から城山、そして南洲神社の墓まで単独で踏破しながら、異国人の目で日本の風物を細かに観察している。この本の最後には、「気の抜けたような九月の夜、火山からの灰は、喫茶店に、そして墓の上に、はらはらと散ってくるのだった」で終わっているが、この頃も今のように桜島の活動が活発な時期にあたっている。